こんにちは。よっとんです
心理・歴史・哲学倫理について、記事を書いています!
今回は、石田梅岩の思想を分かりやすく解説します!
最後までぜひご覧くださいませ!
石田梅岩の生涯
石田梅岩は1685年丹波国(京都府)の農家の次男として生まれました。
ただ、次男に与えられる田畑はなかったので、
彼は11歳で京都の商家に丁稚奉公します。
ただ、奉公先の都合(没落したとか)で数年で帰郷します。
23歳の時、再度京都の呉服商の奉公人となります。
当時の京都は「学生のまち」と言ってもいいくらい、
学問で高みを志す風潮が、どこよりも強くありました。
実際に町全体に学問塾が軒を連ねていたそうです。
ただ、梅岩はあくまでも丁稚あがりの奉公人です。
そんな彼は特定の師匠に入門することはできませんでしたので、
基本的には独学で儒学・神学を学んでいきました。
(ただ、本を買うこともそれなりに大変でしたので、恐らく奉公先の老母の理解、助けがあったと考えられています。)
梅岩の主著『都鄙問答』の中には、
「四書五経」や『孝経』『小学』『近思録』など、朱子学系の書物からの引用が多く見られます。
また、老荘思想や仏教、さらに『徒然草』『日本書紀』など日本の古典からの引用もあり、
これらの学習は、恐らく20~40代までの独学で習得したと思われます。
ここからも、「勉学好き」の石田梅岩像が見えてきますね。
ただ、彼の著作を見てみると、
朱子学の真意をそのまま読み取るのではなく、自己流にアレンジして思想を展開しています。
だから、後ほど梅岩は自己の思想を講義をするのですが、その時には、
儒者たちから「異端ノ流レ」「儒者ニテハ無シ」(『都鄙問答』)とみなされたりとか、
「あの学問にて講義するは、笑ふにたらず」(『斉家論』)などと批判・軽蔑されていました。
まあ、アレンジしたものなので、仕方ないのですが・・・
生涯に話を戻します。
1727年、隠遁の学者小栗了雲に出会います。梅岩の師となります。
了雲は老素思想や仏教の学に通じた人でした。
ある日、故郷に戻った梅岩は「悟り」に到達します。
「性は是天地万物の親」(『石田先生事績』)だと悟りました。
具体的に言えば、人の道は「孝悌忠信」であり、それ以外ではないということに目覚めたということになります。
そして、それを体感して分かった(修行した結果、得た体験であった)と説いています。
その開悟体験の翌年、彼は奉公をやめて「心学」に専念するようになりました。
心学とは名の通り、「心を知る学問」です。
彼は、「心」を突き詰めていけば、人間の「性」(人の本質)を認識することができる、
そして、さらに、「天」(朱子学での「天理」)を知ること、
即ち普遍的真理を知ることに繋がると考えました。
これは、朱子学で説かれる「天人合一」(天理が天地自然と人を一貫している)の思想と自己の思想を、
組み合わせて、自分なりにアレンジしたものでしょう。
「心」⇒「性」⇒「天」という回路を通せば、天と一体化することができると考えた梅岩は、
ここから「心」を知ることを課題にしていきました。
さらに梅岩のオリジナルさはそこだけにとどまりません。
彼の思想は悟りを開く、即ち天地自然と一体化するというものが目標になるのですが、
彼はそれを決して世俗外での経験としませんでした。
つまり具体的な役割を担い合っている世俗の場で体験的に深めていくものとしました。
そこから彼の思想の中核でもある、「商人道徳」を説かれることになります!
彼は商人でさえも「市井ノ臣」として積極的に社会の内に位置付けることをしました。
そして、商人の利を出す行為は、天地自然に適ったもの、
つまり、商人は利を出す行為をしていくことで、悟りを開く(天と一体化する)一歩となることを
彼は主張したのです!!
梅岩は44歳になってから、これらの思想を講義を始めていくことになります。
しかもこの講義、何と聴講無料!
当時ではありえない、女性の参加も認められていたとか。本当にオリジナリティあふれてますね!
結果的に、多くの町人の人が仕事の傍ら彼の講義を聞きに来ることになりました。
きっと、数多の商人が勇気や希望をもらったことでしょう。
生涯は以上で終わります。
ここからは、具体的に彼の思想内容を見ていきたいと思います!!
梅岩の思想①商人が利益を出すことはOK
梅岩のいた時代、農民・職人・商人は蔑視されていました。
日本陽明学の祖といわれる中江藤樹でさえ、
聖人は天子の位に上り給う。其次の大賢人は宰相となり(中略)愚痴不肖なるものは農工商の庶人となり
『翁問答』
と語っているほどです。
儒学で「利益をあげる行為は卑しいこと」とみる風潮がありましたから、
商人は特に蔑まれていました。
商人たちはそれを自覚して、どこか諦めた心持ちで過ごしていたと思われます。
石田梅岩はそこに光を射すようなことばを言い放ちます。
売利を得るは商人の道なり、商人の買利は士の禄に同じ
『都鄙問答』
利益を出すことは商人の道であり、商人が得た利益は、武士がもらっている俸禄と同じだ、
と言っています!
これは当時では画期的な発想でした。
では、なぜ利益を出すことが商人の道となるのか、梅岩は以下のように述べています。
商人がみな農工となれば、物資を流通させるものがなくなり、すべての人が苦労するでしょう。士・農・工・商は世の中が収まるために役立ちます。その一つでも欠けるとどうしようもないでしょう。……侍は位をもった臣下であり、農民は野にある臣下、商・工は町にある臣下です。臣としては君主をたすけるのがその道である。商人が売買するのは世の中の助けになります。
同上(加藤周一訳)
つまり、商人が物資を流通させることで、世の中が循環している、
だから、世を回すのに商人は必要で、その際に出た利益は卑しいものではないということです。
ここで重要なのは、
梅岩は武士・農民・職人・商人は職分上平等だと扱っている点です。
安藤昌益と違って、身分制は否定しているわけではありません。
ただ、君主に仕えるものとして、それぞれの身分は平等であり、
世を循環するための社会的な分業があると考えていたのです。
そのことを彼は、
道は一つなり。然れども士農工商ともに各行う道あり
『都鄙』
と述べています。
また、梅岩は違うアプローチで職分上の平等も説いています。
元来(もとよい)形ある者は、形を直(じき)に心とも可知(しるべし)。〔中略〕孑々(ぼうふりむし)水中に有ては人を不螫(ささず)。蚊と変じて忽(たちまち)に人を螫(さす)。 これ形に由(よる)の心なり。
人それぞれには形があり、その形に徹することで「心」を知ることができる、
ここでいう形とは、自分の「分」ということになるでしょう。
例えば、身分だったり、性別だったり、職分だったり・・・
そういった自分を限定するもののことです。
ここからも身分制を否定しているわけではないことが分かります。
そして、私たちは与えられた形に徹することで、心を知り、性を認識し、そして天と一体化できる。
梅岩は、
「人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば何に不足の有べきや」
と述べ、小天地である、私たちがそれぞれの道に徹することで、
天地(宇宙)と一体化できると説いています。
だから、商人の仕事も蔑まれるようなものではないのです。
小天地である商人は、商人としての形に徹することで、心を知り、最終的には天と一体化することができるということになります。
梅岩の思想②お客様が一番!
①で商人が利益を出すことはOKだといいました。
だけど、利益を貪っていいわけではありません。
梅岩は以下のように主張しています。
世間のありさまを見れば、商人のように見えて盗人あり、実の商人は先も立ち、我も立つことを思うなり。
『都鄙問答』
ここでいう「盗人」とは、暴利をむさぼる商人のことです。
それは実(まこと)の商人ではないのです!
真の商人は、お客(先方)を立てることができる人です。
つまり、お客様のことを第一に考えることができる人のことということになります。
まさに顧客第一主義ですね!!
この時代、必要以上の利益をとって儲けようとする商人が多くいました。
梅岩はそれをやってしまうと、客の信用を失い、結果的に客が減らすことになると言っています。
重要なのは、「先も立ち、我も立つ」ことです。
お客を喜ばせることが、積もりに積もって自分の利に繋がる(我も立つ)ことになるのです!
梅岩はここで商人にとって重要な徳をあげます。
それが「正直」と「倹約」です。
「正直」は例えば、暴利を貪ることをしないことや
売る商品やサービスに手を抜かず、心を配ることですね。
とにかくお客に対し誠実な姿勢でのぞむことの大切さを説いています。
そうすれば、客もお金を惜しまず、喜んでくれて、結果的に自分の利に繋がるのです。
「倹約」はケチケチすることではありません。
梅岩の説く「倹約」とはお金を適切に使うことをいいます。
ここで彼は「知足按分」が大切だと説きます。
知足按分とは、自己の分(立場)に安んじることです。
つまり、自分の身分に相応して多くもなく、少なくもなく、お金を使うことをいいます。
身の丈にあった生活をすること、それから正直な心でいること、
私にもぐさっ、ぐさっ刺さる言葉ですね(笑)
これらの徳は現代にも十分通じる心得ですね。
だから梅岩の思想は商売人の方から今でも人気があります。
そんな有難い思想をぜひ皆さんも覚えておいてください!
まとめ
石田梅岩の思想はいかがだったでしょうか。
彼は天地自然と一体化するための、商人の道を説いていました。
とても崇高なお話になるかと思いきや、結論は
顧客第一主義!という何ともわかりやすいものでしたね。
ただ、梅岩の講義は町人の人気を集めました。
補足になりますが、梅岩よりも人気を集めた人がいました。
それが弟子の手島堵庵です。
彼は梅岩の思想の継承者で、
「石門心学」という名で講義をしました。
※「心学」という言葉は堵庵が使用し始めたそうです。わかりにくい朱子学の「性」ではなく、身近に使う「心」という言葉を使うことで民衆になじみました。
堵庵は、梅岩の難解な言葉遣いを平易なものしたり、身近な例を使って講義したのです。
これがものすごい人気を博し、心学講舎は全国に180程できたそうです。
子ども向けの講義を始めたことも革新的でした。
そのおかげで梅岩の思想は全国に響きわたり、商人の心を支えたのでした。
以上、石田梅岩の思想についてでした。
長くなりましたが、ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。
他にも色々記載してますので、よかったらご覧ください。
参考文献
- 『江戸の学びと思想家たち』(著:辻本雅史)岩波新書
- 『江戸の思想史 人物 方法 連環』(著:田尻祐一郎)中公新書
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