福沢諭吉はいたずらっ子だった!?【福沢諭吉を忘れるな①幼少期編】

哲学・倫理学

こんにちは。よっとんです。

歴史・哲学倫理・心理、それから本紹介のブログを書いています。

2024年の上半期から1万円札が渋沢栄一に変わるのはご存じでしょうか?

ということは長年愛され続けてきた福沢諭吉の顔が見れなくなってしまいます。

そこで、

本日から、数日かけて福沢諭吉を忘れるなプロジェクトを行っていきます。

  1. 福沢諭吉はいたずらっ子だった?【幼少期編】
  2. 福沢諭吉は欧米でびっくり体験の連続!【欧米編】
  3. 『学問のすゝめ』はなぜ大ベストセラーに?【明治期】
  4. 晩年の福沢諭吉は何故「脱アジア」を説いたのか?【明治~大正】

以上4つでお送りできればと思います!

この4つを通して皆さんには、ぜひ福沢諭吉という人物がどんな人だったのか、

どれだけの功績を残してきたのかを知っていただきたいのです!!

  • 大ベストセラーの『学問のすゝめ』と書いたこと
  • 「自由」「権利」「社会」という言葉を作ったこと
  • 現在の慶應義塾大学となる塾を創始したこと

など福沢は日本に大きく貢献した人物です。

江戸時代から明治、大正時代と、怒涛の転換期を過ごした福沢諭吉はどんな生涯を送ったのか、

まずは、福沢諭吉の誕生から本日はご紹介します。

ぜひ最後まで楽しんでご覧ください。

※今回は諭吉の後年の自伝である『福翁自伝』を参考に作成しています。現代語訳が読みやすいと思います。よければ参考にしてください!!

「諭吉」という名前の秘密(諭吉の誕生)

1835年 大坂中津藩蔵屋敷で一人の丈夫な赤ちゃんが生まれました。

今の大阪大学の医学部の構内で生まれた、その人物こそ諭吉です。

そもそも、何故彼は諭吉という名前なのか??

諭吉の父百助は豊前国中津藩(現大分県)の者でした。

諭吉を産んだ時、なぜ大坂にいたのか?

大坂の堂島はいわばビジネスセンターで、そこに来ている米商人に米を売るために大名たちがたくさん集まっていました。

中津藩も同様で、蔵屋敷を大坂に設けていました。

その蔵屋敷に諭吉の父百助は務めることになったのです。

そんな父百助は、学問好き、特に儒教を好んで読んでいました。

父はたまたま、漢学書の『上諭条例』という本が手に入り、その本から一文字とって

生まれた息子に「諭吉」とつけたのです。

こうして新たな時代を造り出す「諭吉」が生まれました。

門閥制度は親の敵でござる

父の百助(43歳)と母の順(31)との間にはすでに1男3女がいました。

その中でも諭吉は大きく、骨太な子でした!!

父百助はそんな諭吉を見て、

「この子は10、11歳になったら寺へやって僧侶にしてやろう!」

と言っていました。

ここで「なぜ僧侶?」

と思われたかもしれません

実は、百助は下級武士でした。

当時は身分が物を言う時代。上級武士とは天地ほどの差がありました。

下級武士の出世は見込めません。

ただ、僧侶ならば偉くなった例がいくつかありました。

父百助は、自分の夢(儒者のもとで学びたい)が貧しさゆえに叶わなかったことを憂いて、

息子にはそういう道を歩ませたくないと思っていたのでしょう。

だから、彼を僧侶になってほしいと切望していたのです。

ただ、父百助は諭吉の生まれた二年後に亡くなってしまいます。

父百助の生涯を苦しめた封建制度(身分制度≒門閥制度)に対し、諭吉は深い恨みを抱いていました。

後年の諭吉は以下のように述べています。

門閥制度は親の敵でござる

『福翁自伝』

中津藩での諭吉(幼少期)

父百助を亡くした母の順は、5人の子を連れて中津藩(現大分県)へ戻りました。

中津藩へ戻るとそこはすでに異国の状態!

まず、しゃべる言葉が違う・・・

諭吉が「そうでおます」(※大坂弁)というところを、

中津の人は「そうじゃちこ」などといいます。

中津の人々にとって諭吉の話し方はおかしくて仕方ありませんでした。

また、髪型も着物も大坂風である諭吉は笑われてしまう始末。

木登りができず、泳げない諭吉は仲間外れにされることも多く、

自然と彼は家で兄弟姉妹と遊ぶようになりました

兄弟姉妹同士とても仲が良く、全く喧嘩もしなかったようです。

そんな子供たちを女手一つで育てた母の順は、とても合理的な考え方の持ち主で、神様・占い・迷信などを信じない人でした。

墓参りにはいくのに、仏様を拝んだことがない。

それから、娯楽にも興味を示しませんでした。

三味線はおろか、芝居も見ません。

今でいえば、音楽にも映画にも興味がないという感じでしょうか。

ただ、彼女はとても慈悲深い人でもあったそうで、

身寄りのない子供がいれば家に連れてきて、しらみをとってやりました。

諭吉はそのしらみをつぶす役だったそうです。

※諭吉は手先が器用だったようで、タンスの鍵が開かないとき、釘を使って開けてた、壊れた畳を直したというエピソードも残っています。

そんな母の下で育った諭吉はずっと塾へ行っていませんでした。

だから、読み書きはできません。

14~15歳になった頃、少し心配になったのでしょう。

「近所の子は皆本を読んでいるのに、自分だけ読んでいないのは恥ずかしい・・・」

と思った彼は田舎の塾へ通い始めました!

ここから勉強家の諭吉の人生がスタートします。

遅めのスタートでしたが、諭吉には文才があり、少し本を読めば、すぐに文章の意味を理解するのに長けてました。

だから、ぐんぐん学力をつけて、ついに中津一の学力をつけたのです!

生意気いたずらな諭吉

ここでは諭吉のちょっとした生意気なエピソードをご紹介します。

諭吉は、15~6歳の頃から養子に取られていました。

福沢家は兄の三之助が継ぎ、次男の諭吉は家督相続の予備的存在でした。

養子に出す方が良いと母は考えたのだといわれています。

家督を継いだ兄は忠誠心のかたまりのような存在でした。

彼との会話が面白いので載せておきます。

あるとき兄が私に聞いて「お前はこれから先、何になるつもりか」と言うから、私が答えて「そうですね、まず日本一の大金持になって思うさまに金を使ってみようと思います」と言うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が問い返して「兄さんはどうなさる」と尋ねると、真面目に「死に至るまで孝悌忠信」とただ一言で、私は「ヘーイ」といったきりになったことがある。

『現代語訳 福翁自伝』(ちくま新書)翻訳:斉藤孝

諭吉は次男だからこそ、長男の三之助よりも封建制度に縛られずに生きていけたのでしょう。

他にはこんなエピソードも・・・

また私の十二、三歳のころだったと思う。

兄が紙をそろえているところを、私がドタバタ踏んで通ったところ、兄が大声で「コリャ待て」とひどく叱り付けて「お前は眼が見えぬか。これを見なさい。何と書いてある。「奥平大膳大夫(※中津藩の譜代)」というお名前が書いてあるではないか」と大層な剣幕だ。

「アアさようでございましたか、知りませんでした」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずだ。お名前を足で踏むとはどういう心得だ。臣士の道というものは…‥‥」と、何か難しいことを並べて叱るから謝らないわけにはいかない。

「私が悪うございましたから堪忍してください」とお辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もしない。

「殿様の頭を踏んだわけでもないだろう。名前の書いてある紙を踏んだからって構うことはなさそうなものだ」とたいへん不平でした。

同上

その後、諭吉は神様の名前のあるお札を踏みます。

そして何もないことを確認し、今度はそれをトイレへもっていって踏みました (笑)

「それ見たことか。兄さんは余計なことを言わんでもよいのだ!」

諭吉はその後無敵状態!

養家の稲荷の社に入っていた石を他の石に変えたり、

同じように隣の社の木札を他のものに変えたりと・・・(笑)

祭りの日になって、その変えた石・木札にのぼりをたてたり、太鼓を叩いたり、御神酒を上げてワイワイしているのを見て諭吉は、

「馬鹿め。おれの入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い」とひとり嬉しがっていましたとさ。

以上、諭吉の生意気いたずらエピソードでした。

諭吉に大チャンス到来

中津藩で長いこと暮らしていた諭吉でしたが、

そんな諭吉にチャンスが訪れます。

1853年・・・

そう、ペリー来航です。黒船4隻の衝撃は日本中をとどろかせました。

中津藩も動きます。大砲をそろえることになったのです。

しかし、大砲の扱い方を学ぶには、原書のオランダ語を読める存在が必要でしたが中津藩にはいません。

「オランダ語を読めるやつを育てるため、数名募り長崎へいかせよう」ということになりました。

そこで兄の推薦で抜擢されたのが、諭吉でした。

こうして諭吉は長崎へオランダ語を学ぶために赴くことになったのです。

諭吉は長崎の砲術家山本物次郎の下で熱心にオランダ語を習得しました。

しかし、ここでも門閥制度が立ちはだかります。

諭吉と共に学んでいた家老の息子である奥平壱岐が、

諭吉が優秀なことを妬み、彼を追放するよう画策します。

その結果、諭吉は長崎で学ぶことができなくなってしまったのです・・・

しかし、根気強い諭吉はこんなことでは諦めません!!

次に、彼は大坂の蔵屋敷から再度蘭学を学ぶことになります。

彼が通った塾は、大坂で超有名な適塾です。

蘭医学者の緒方洪庵が創始した塾で、全国から蘭学・医学を学びたい人が集まり、当時は約80~90名の塾生がいました。

塾生同士で切磋琢磨できる環境で諭吉は蘭学をどんどん吸収していきます。

途中、兄の死去で一度中津藩にもどるも、

とにかく蘭学を勉強したい諭吉は家督を継ぐことを断り、再度適塾へ行きます。

熱心に勉強をした結果、適塾で諭吉は塾生長にまでなるほどでした。

そして、大坂で学問に励んでいた諭吉にもう一度転機が訪れます。

江戸で蘭学の受容が増えたので、藩から諭吉に教師をやるよう頼まれたのです。

江戸へ赴き、蘭学塾を開きました。

そうです。

これが、慶応義塾のはじまりです。

時代は進んでおり、幕府はアメリカ以外のオランダ・ロシア・イギリス・フランスと通常条約を結んでいました。

即ち、五か国との貿易が盛んになってきていました。

諭吉は、自分のオランダ語がどれだけ通じるのか、試してみたいという気持ちに駆られます。

そこで、彼は横浜港へ赴き、オランダ語を披露するのですが・・・

「あれ、通じない・・・!」

そうなんです。時はすでに英語の時代

オランダの時代は終わり、イギリスの時代がやってきていました

諭吉意気消沈・・・

するのかと思いきや、さすが諭吉ですね。

英語を独学で学ぶのでした。※当時は英語を話せる人が日本にはあまりいませんでしたので。

そんな諭吉に大チャンスが訪れます。

日本は条約締結のため、アメリカへ初めて使節団を送ることになったのです。

外国行きを熱望していた諭吉は、とにかく船に乗りたい!!

アテをあたりまくります!

その熱意が何とか軍艦奉行の木村摂津守まで届き、

なんと、使節団の護衛としてアメリカ行きに随行することを許可されたのです!!すごい!

船はオランダから購入した咸臨丸!指揮官はあの勝海舟!

途中、嵐に何度か見舞われ、大変な思いもしましたが、何とかアメリカにつくことができました。

さて、この続きは次回の福沢諭吉を忘れるな!【欧米での出来事】をお送りしたいと思います!

ご覧いただき、誠にありがとうございました!

参考文献を載せておきます。

☆『学問のすすめ 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斉藤 孝

☆『福翁自伝 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斎藤 孝

☆『人と思想 21福沢諭吉』(清水書院)著者:鹿野 政直

☆『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』(彩図社)翻訳:武田 知弘

☆『西洋事情』(慶應義塾大学出版会 )編集: マリオン・ソシエ, 西川 俊作

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