福沢諭吉は欧米でびっくり体験の連続だった?【福沢諭吉を忘れるな②欧米編】

哲学・倫理学

こんにちは。よっとんです。

哲学・倫理・歴史・心理、それから本紹介のブログを書いています。

本日は、福沢諭吉忘れるなプロジェクト第2弾ということで、

福沢諭吉は欧米でびっくり体験の連続だった?【欧米編】をお送りしたいと思います。

本日の記事で

  • 福沢諭吉の欧米体験での面白エピソード
  • 福沢諭吉が欧米体験で伝えたかったこととは?

の2点がよくわかるようになっています!

諭吉の晩年の著作『福翁自伝』の中にはたくさん面白い話があるのですが、

僕自身、ここからの欧米体験記が一番好きです。

なぜなら、今では「普通だろ!」とついついツッコんでしまうようなことに、

諭吉たちは何度も何度も驚くのです。

その諭吉たちの体験描写はなにより新鮮です!

ですので、皆さんにもその楽しさが伝わるように記事にしていきます!

ぜひ最後までご覧ください!

※補足:前回のものは下の画像をクリックしてください。

いざ、アメリカへ

では、前回の続きからお話ししましょう。

諭吉たちは37日間かけて無事アメリカへ着きました。

まずは到着後、不慣れな諭吉たちのエピソードをいくつかご紹介します!

初の海外に驚きの連続!

当時のアメリカ人は日本人の渡米に好意的に思ってくれたそうです。

アメリカ人からしたら、日本は自分たちが開国した国

彼らにとっての日本は、学校の先生が自分の教えていた生徒が何年後かに先生として戻ってくるような感じに近いのかもしれません。

アメリカ人たちは日本を歓迎しようと祝砲儀式を行おうとします。

これは大砲を打つというシンプルなもの(今の花火にちかいですかね。)

ただ、基本的に祝砲はされたら、応じなくてはなりません。(=応砲)

日本は慣れていませんので、ここでいざこざが起こります。

勝海舟はいいます。

「応砲はとてもできない。応砲などしてそこなうよりも打たない方がよい」

そうすると、佐々倉桐太郎は言い返します。

「いや、打てないことはない。打ってみせる」

それに対して勝はいいます。

「馬鹿言え。貴様たちにできたらおれの首をやる」

結果どうなったか・・・

佐々倉は見事に応砲しました!(笑)

佐々倉は

「首尾よくできたから、勝の首はおれの物だ。しかし、航海中、用も多いからしばらくあの首を当人に預けておく」

といって船内は大いに笑ったそうです。

アメリカに着く前から日本人の初々しさが見て伺えます。

その後もアメリカ人はとてもよく接待してくれたました。

ただ、諭吉たちにとっては一つ一つが目新しいものです。すべてが驚きの連続!

例えば、

  • 馬車が通っている!
  • 一面に引いている絨毯!
  • 建物の中を靴で歩くことができる!
  • 春だというのに、シャンパンの中に氷が入っている!

などなど。不慣れすぎて、こんなエピソードも残っています。

諭吉は煙草を吸おうと思いました。

当時アメリカではマッチで火をつけるのですが、それもわからない諭吉は、近くのストーブで火を点けます。

その後、吸い殻を置くところがないのに気づきます。

彼は、吸い殻を持っていた紙に包むことにしました。

ただ、きちんと火が消えていなかったのでしょう、煙がもくもくと出てきて、諭吉たちは大変焦ったそうです(笑)

一個一個のエピソードを『福翁自伝』には事細かく載せてありますので、詳しくはこの記事の一番下にリンクを載せておきますので、ぜひ読んでください!

固定観念からの脱却

諭吉は渡米体験で驚いたことは生活文化だけではなく、性別や身分に対する考え方の違いにも及びました。

性別の違いが顕著に表れたのは、あるアメリカ人医者の家に招待された時のことです。

その家に着き、諭吉たちが座っていると、日本では見られない光景が見えました。

なんと、男の人がせっせ、せっせと食事の準備をしているではないですか!

さらに、女性の人が諭吉たちと会話を楽しんでいる・・・これに当時の諭吉は大変驚いたそうです。

諭吉は「女尊男卑」とまで言っています。

もう一つ有名なお話をご紹介します。

諭吉はある人にこう尋ねました。

「今ワシントンの子孫はどうなっているか?」

その人は

「ワシントンの子孫には女がいるはずだ。今どうしているかは知らないが、何でも誰かの奥さんになっている様子だ」

と冷淡な様子で答えました。

これに、諭吉は驚きます。

徳川家康の血筋が幕府を担ってきて、

さらに、身分制度があり、生まれによって生涯が決まってしまう世を生きていた諭吉たちにとって、これほどの社会上の違いはとても驚きでした。

諭吉の渡米の旅は間もなく終わるのですが、諭吉は2つほどお土産を持って帰ります。

一つは、通訳の中浜万次郎とともに買った英辞書(『ウェブストル』)です。

これが。ウェブストルという辞書の輸入第一号でした。

諭吉は本当に倹約家といいますか、物欲が無いといいますか、

あまり色々買わなかったそうです。

ただ、そんな諭吉がもう一つ持って帰ったものがありました。

それが、アメリカ人女性との2ショット写真です。

諭吉が写真屋に行ったときに、15歳の写真屋の娘さんがいました。

諭吉は「一緒に撮ろうではないか」と声をかけたら、素直にOKをしてもらい、撮ったものです。

まず、当時の日本ではありえない写真です。

女性と男性が二人で撮る、しかも対等にということ自体ありません。

だから、とても貴重な写真でした。

しかも諭吉はこの写真をアメリカにいる間には誰にも見せませんでした。

帰路について、途中ハワイに寄る時に、見せて言うのです。

「お前たちサンフランシスコに長く逗留していたが、婦人と親しく並んで写真を撮るなんぞということはできなかっただろう。さあ、どうだ。朝夕口でくだらなことばかり言っているが、実行しなければ話にならないじゃないか。」

もう戻って撮りに行けない状況で、あえて冷やかす形で発表する諭吉、

こういう所が僕はとても好きです(笑)

こうして諭吉たち一行の渡米は終了したのでした。

いざ、欧米へ!

諭吉がアメリカから帰ってきたことの日本は井伊直弼が攘夷派水戸浪士に暗殺された事件、即ち「桜田門外の変」があった頃になります。

これからますます混乱していく日本で、幕府の外国方(※仕事は外国書物の翻訳)として雇われた諭吉は、塾を開いて勉学の必要性を説き続けます。

攘夷をしている場合ではない、勉強をもっとしなくてはならない、この姿勢は諭吉の今後の基本姿勢となっていきます。

1862年諭吉は中津藩士土岐太郎八の娘きんと結婚します。

そんな順風満帆な諭吉に再び朗報がきます。

遣欧使節団です。諭吉は翻訳係として随行することになりました。

さて、諭吉の新たな旅のスタートです。

西洋でも驚きの連続!

諭吉たちは、インド洋からスエズ、そこから蒸気車(諭吉は初めて)乗って、地中海ルートでフランスへ行きました。

その後、フランス、イギリス、オランダ、プロイセン(現ドイツ)、ロシア、ポルトガルを回る旅でした。

その期間は約一年!長いですね。

彼らは、どの国でもきちんとした接待を受けました。

ただ、渡米経験の時と同じく、驚きの連続。

特に、フランスやイギリスはとても発展していましたので、渡米の時にはない経験もしました。

パリに到着した諭吉たちは、接待係に人数(30名程)を聞かれます。

すると「このくらいなら、一軒でいけますよ!」と言われます。

諭吉たちは、何のこっちゃ分かりません。

案内に連れていかれた旅館は、パリの王宮の門外にあるホテルでした!

千人以上は泊まれるというホテルです。

諭吉たちはこれほどの規模の旅館があることに驚きます。

むしろ、ホテル内の廊下で迷わないかが心配だったそうです(笑)

それから、食事がとても美味しかった。

諭吉たちは食事が口に合うか心配で、実は何百箱の白米と米を炊くための一式を持ってきていました。

しかし、あまりに出された食事が美味なので、その一式を接待係の下役の人にあげてしまったそうです(笑)

そのほかの失策もいくつか挙げておきます。

  • 煙草が欲しくて「シガー」を買いに行ったやつが、「シュガー」(砂糖)を持って帰ってきた!
  • 夜中、便所いくのにぼんぼりを持って行き、かつドアを開けっぱなし(日本風のやりかた)をしていた幕府のお偉いさんがいた。ガス灯で明かるく、丸見え・・・その時諭吉は何も言わずにドアを閉めた。

とても面白いですね!(笑)

文化の違いは今もありますが、この時が一番差があったかもしれませんね。

文化・風習の違いを思い知った諭吉は西洋でのことを一冊の本にまとめます。

それが『西洋事情』です。

諭吉が日本人に知ってほしかった西洋とは?

諭吉の書いた『西洋事情』には、科学的な事物はあまり載っていません。

確かに、鉄道やガス灯など日本に無い物を書いてはいるのですが、

諭吉自身が重要視したのは科学的なものではありませんでした。

それは、社会制度です。

電気のこと、蒸気のこと、印刷のこと、諸工業製作のこと、これらは専門家でもない諭吉が書いてもたかが知れている。

ただ、社会制度の違いは肌で感じた諭吉だから書けるもの、それこそ伝えるべきだと思ったのです。

具体的に言えば以下のようなものです。

  • 病院というものがあるが、その費用はどうしているのか?
  • 銀行というものがあるが、お金の支出入はどうしているか?
  • 郵便法というものの趣向はなにか?
  • 徴兵令がある国ない国があるが、そもそもの趣向はなにか?

江戸期の日本には国営の病院も銀行もありません。

それが本格的に導入するのは明治時代になってからです。

(NHK大河ドラマ『青天を衝け』(渋沢栄一役の主演は吉沢亮)ではその様子が見事に描かれています。)

そんな諸制度の中で諭吉がとても興味をもったのはイギリスの政治システムでした。

まず、選挙で指導者を選ぶ。このことも諭吉には理解できませんでした。

また、保守党と自由党という党があり、彼らが政治上のことで言い争っている様子が意味不明でした。

なぜ喧嘩しているのか?なぜさっきまで喧嘩してたのに、すぐ酒や食事を酌み交わせるのか?

議会の仕組み、選挙の仕組みに関してまったくもって分からなかったのです。

ただ、諭吉はイギリス人に質問しまくります。イギリス人も当たり前すぎて、何を聞かれているのかわからない状態・・・

諭吉はそれでも貪欲に、粘り強く質問して、なんとか理解できたようです。

そして、諭吉はこの制度こそ進んだ制度と思いました。

これを伝えなくては、ということから『西洋事情』を書きました。

日本人がまだまだ身分や封建制度から脱却できない中で諭吉の『西洋事情』がどれほど価値のあるものだったのかは想像に難くないでしょう。

『西洋事情』は約25万部のベストセラーになりました。

諭吉の貪欲な探究心の賜物を多くの人々が読んだことになります。

諭吉の努力は、当時の日本人の中に「変革すべき」という考えを醸成したことは間違いないでしょう。

以上、諭吉一行の欧州体験記でした。

まとめ

最後に諭吉たちが今後どうなったかを簡潔にご紹介して終わりにします。

欧州を旅していた諭吉たちでしたが、実は日本の攘夷運動が過激になったことで、追い出されるような形で帰国をします。

諭吉は攘夷を恨みます。攘夷をしている場合ではない。

帰国後、間もなく日本は戊辰戦争(幕府方vs新政府)が始まりました。

ただ、諭吉は戦争には参加しませんでした。彼は塾生に勉強を教え続けたのです。

この時慶応4年、彼は、自分の塾に「慶応義塾」と名付けました。(現:慶應義塾大学)

※ちなみに授業料を取るという形にしたのも諭吉が日本初です。

諭吉は今の日本には「学問」が最も必要だと感じていたのでしょう。

明治時代になって、新政府に呼ばれましたが、それも断っています。

※この時の彼は、新政府=攘夷派の集まりと思ったいたそうです。by『福翁自伝』

彼は自分の役割は役人ではなく、「教育者」であると自覚していました。

そこで、彼は『学問のすゝめ』を執筆するのです。

次回は10人に1人は読んだ350万部の大ベストセラー『学問のすゝめ』について、

その中身を説明していきます。

本日はここまでです!最後まで読んでいただき、誠ににありがとうございました。

以下、本日の記事の参考文献を載せておきます。福沢諭吉の面白エピソードがまだまだ載っていますので、ぜひ読んでください!

☆『学問のすすめ 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斉藤 孝

☆『福翁自伝 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斎藤 孝

☆『人と思想 21福沢諭吉』(清水書院)著者:鹿野 政直

☆『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』(彩図社)翻訳:武田 知弘

☆『西洋事情』(慶應義塾大学出版会 )編集: マリオン・ソシエ, 西川 俊作

コメント

タイトルとURLをコピーしました