仏教において上位から順に「如来」「菩薩」「羅漢」「天」とされることがおおいですが、
そもそもこれらの概念はどのような意味合いなのか。
これらの概念について、簡潔に分かりやすく解説します。
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如来(にょらい)
如来とは、真理を悟り、完全な人格を得た者を指します。
元々は仏教の開祖である釈迦(シャカ)(ゴーダマ=シッダッタ)の別称であり、「ブッダ」と同義でした。
「ブッダ」とは「目覚めた者」「悟りを開いた者」という意味です。
※本来の仏教では、輪廻転生(生まれ変わり)の世界から抜け出すために、「ブッダ(仏陀)に成る」(=成仏)を目指します。具体的には修行をして、悟りを開くことで成仏できると考えられていました。
しかし、大乗仏教の発展とともに、釈迦以外の多くのブッダ、すなわち「仏(ほとけ)」が考え出されました。
※大乗仏教は一切衆生(すべての民)を救うをことを目指すので、あらゆるニーズに答えた結果、仏が多様化したといわれています。
そして、これらの諸仏もまた「如来」と呼ばれるようになり、
私たちがお寺などで目にする「阿弥陀如来(あみだにょらい)」や「薬師如来(やくしにょらい)」のように、「○○如来」という形で多くの如来が存在するようになりました。
これは、多様な衆生を救済するために、それぞれの特徴を持つ仏が表された結果とも言えます。
菩薩(ぼさつ)と羅漢(らかん)=阿羅漢(あらかん)
続いては菩薩と羅漢です。
これらの概念は、仏教の宗派によってその位置付けが大きく異なります。
羅漢(阿羅漢)
上座部仏教(小乗仏教とも呼ばれる)では、すべての人(一切衆生)がブッダになれるとは考えませんでした。
仏陀になれるのは偉大なゴーダマ=シッダッタ(=釈迦)だけです。
その代わりに一般の人が目指すべき最高の境地とされたのが阿羅漢(あらかん)です。
阿羅漢とは、煩悩(ぼんのう)をすべて断ち切り、修行を完成させた者を指します。
これ以上学ぶべきものがないという意味で「無学(むがく)」とも呼ばれます。
上座部仏教においては、阿羅漢こそが到達しうる最高の位とされていました。
菩薩
一方、大乗仏教では、阿羅漢はあくまでも「自利(じり)」、つまり自己の悟りだけを目的とした修行の完成者であると考えました。
大乗仏教が理想とするのは、菩薩(ぼさつ)です。
菩薩とは、自らが悟りを開くだけでなく、すべての衆生(しゅじょう=生きとし生けるもの)を救済するという大きな誓願(せいがん)を立て、そのために修行を続ける者を指します。
菩薩は、自己の悟り(自利)と、他者を救うこと(利他)の両方を重視します。
そのため、大乗仏教においては、阿羅漢は菩薩には及ばないとされ、下位にランク付けがなされています。
例えば、観音菩薩(かんのんぼさつ)や地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、衆生を救済するために現れたとされる代表的な菩薩です。
天(てん)
天(てん)とは、神々のことを指します。
仏教の世界観において、天は仏よりも下位に位置付けられます。
これは、天の神々もまた煩悩を持ち、まだ輪廻転生(りんねてんしょう)のサイクルの中にいる存在だからです。
ここで「六道輪廻(ろくどうりんね)」の概念を簡単に紹介します。
六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の六つの世界を指します。
衆生は生前の「業(ごう)(=欲望・煩悩のこと)」によって六つの世界のうちどの世界(道)を生まれ変わるかが決まるとされています。
天界は六道の中では最も苦しみが少なく、楽しみが多い世界ですが、それでも完全に苦しみから解放された悟りの境地ではありません。
先ほども言いましたが仏教のゴールはこの六道の中でさまよい続ける輪廻転生(…生まれ変わり)から脱することです(解脱ともいいます)
解脱は成仏することとほぼ同意です。
仏になることは、天界(神になる)ことよりも上位なので、天は如来などよりも下位に位置づけられるのです。
したがって、天は崇められる存在ではありますが、仏のように悟りを開いた存在とは区別されます。
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