日本の歴史には、その後の世の中に大きな影響を与えた人がたくさんいます。
今日お話しするのは、平安時代に活躍した最澄(さいちょう)というお坊さんです。
彼は、今も多くの人が訪れる比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)というお寺の始まりを作ったことで知られています。
最澄がどんな人で、どんなことを成し遂げたのか、一緒に見ていきましょう。
最澄の生涯:諦めない心で学び続けた人
最澄は、今の滋賀県で生まれました。
小さい頃から仏教に興味を持ち、
11歳でお寺に入り、14歳で正式にお坊さんになります。
その時、「最澄」という名前をもらいました。
19歳の時、奈良にある大きなお寺、東大寺で正式なお坊さんの資格を得ましたが、
最澄はそこで満足しませんでした。
すぐに比叡山という山に登り、
そこで「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」という自分だけの修行の場所を作りました。
人里離れた山で、ひたすら仏教の修行に打ち込む、これが最澄のスタイルでした。
この場所が、後に日本の仏教の中心となる延暦寺の元になったんです。
最澄の探求心は、日本だけにとどまりませんでした。
804年、彼は中国(当時の唐)へ渡り、本場の仏教を学びます。
そこで特に心惹かれたのが「天台宗」という教えでした。
さらに、日本に帰る途中で「密教(みっきょう)」という秘密の教えも学びました。
わずか9ヶ月という短い期間で日本に戻ってきたのは、それだけ新しい教えを日本に持ち帰ることに情熱を燃やしていたからでしょう。
日本に戻った最澄は、比叡山の一乗止観院で、熱心に仏教を学ぶお坊さんたちを育て始めました。
こうして、この場所がどんどん大きくなり、やがて延暦寺として知られるようになりました。
弘法大師・空海との交流
最澄は、同じ時期に中国へ渡り、真言密教(しんごんみっきょう)を学んで帰ってきた
空海とも仲良くなりました。
最澄は空海から密教の教えをさらに深く学び、その影響で、最澄が始めた天台宗にも密教の要素が加わり、「台密(たいみつ)」と呼ばれるようになりました。
最澄が日本に広めた天台宗は、
円(天台宗の教え)、戒(戒律)、禅(止観)、密(密教)の四つの宗派を融合したものでした。
この幅広い学びが、たくさんのお坊さんを引きつけ、
平安時代に活躍した源信(げんしん)をはじめ、
鎌倉新仏教の開祖として知られる
法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、栄西(えいさい)、道元(どうげん)といった、
日本の歴史に残るお坊さんたちも、みんな比叡山で最澄の教えを学んでいたんです。
だからこそ、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれています。
最澄は55歳で亡くなりましたが、亡くなってから40年以上経った後、日本で初めて「伝教大師(でんぎょうだいし)」**という、名誉ある称号を贈られました。
これは、最澄がどれだけ素晴らしい功績を残したかを物語っています。
最澄の思想:すべての人に開かれた仏教
ここからは最澄の思想を見ていきます。
一乗思想
最澄の考え方の中心には、「一乗思想(いちじょうしそう)」というものがあります。
これは、「仏様はたくさんの教えを説いたけれど、それは人を導くための方便であって、本当の目的(本質)はたった一つなんだよ」という考え方です。
元々は、三乗思想というものがありました。内容は以下の3つです。
・声聞(しょうもん)乗(ブッダの教えを直接聞き悟ろう)
・縁覚(えんがく)乗 (師なくして独自に悟りを得られる)
・菩薩(ぼさつ)乗 (自分の悟りだけでなく他人の悟りも導くべき)
このように仏に成る道には3つの手段(乗り物)があると説かれていましたが、
最澄は、三乗思想は方便であり、本来はどんな人も仏になるための手段は一つしかないんだよ。
つまり、仏教の最終的なゴールはみんな同じで、どんな人でもそのゴールにたどり着ける可能性がある、と彼は考えました。
この思想は『法華経』というお経に由来するもので、最澄が重要視したお経です。
さらに、この考え方は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という教えにもつながります。
これは、「生きているものすべてが、仏様になるための種(可能性)を持っている」という意味です。
身分や能力に関係なく、誰もが仏様になれる力を持っているという、とても開かれた考え方でした。
補足:『法華経』の解説と天台宗との関係
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は約2500年前のインドで仏教を開き、約80年の生涯を送りました。しかし、『法華経(ほけきょう)』では、その姿は人々を悟りへ導くために現した仮の姿(方便)であり、真実の仏は時間や空間を超えて永遠に存在する「久遠実成(くおんじつじょう)の仏」であると説いています。
そのため、ゴータマ・シッダールタ以外の仏(如来)、例えば阿弥陀如来(あみだにょらい)や薬師如来(やくしにょらい)など、たくさんの仏像が造られます。これらもまた、「久遠実成の仏」が衆生を救うために現すさまざまな「仮の姿」である、というのが『法華経』の解釈です。
天台宗(てんだいしゅう)もこの『法華経』の教えに基づき、すべての人が仏になれるという「一乗思想(いちじょうしそう)」を大切にしているのです。
大乗戒壇の設置
最澄は、お坊さんになるための正式な儀式、
つまり戒律(お坊さんの守るべきルール)を授ける場所(=戒壇(かいだん))を、
当時の奈良にある国が管理するお寺(東大寺の戒壇院)だけでなく、
自分の開いた比叡山(でも行えるようにすることを強く求めました。
この場所こそが「大乗戒壇(だいじょうかいだん)」です。
これは、単なる場所の増設以上の意味を持っていました。
当時の日本の仏教は、国からの影響を強く受けていました。
最澄は、国に管理されていた仏教から、お坊さんたちがもっと自由に、そして自分たちの力で育っていけるようにしたいという強い願いを抱いていたのです。
この最澄の願いは、はるか昔、奈良時代に苦難の末に日本に渡ってきた鑑真(がんじん)というお坊さんの功績とも深く結びついています。
鑑真は、正しい戒律を日本に伝えるために、失明の危機や数々の遭難を乗り越えて来日し、
東大寺に「戒壇院」を築いて、日本のお坊さんが正式な戒律を受ける道を確立しました。
鑑真が命がけで日本にもたらしたこの戒律は、国家公認のお坊さん(南都六宗に繋がる)を育成するための重要な基盤となりました。
しかし、時代が下るにつれて、その戒律が形骸化(形だけになってしまうこと)してしまうという問題も生じていました。
そこで最澄は、鑑真が確立した戒律の精神を受け継ぎながらも、
より実践的で、すべての人々が仏になれるという天台宗の教え(一乗思想)に基づいた、
新しい形での戒律授与の場を比叡山に設けることで、
日本の仏教をより深く、そして人々の心に寄り添うものに変えようとしたのです。
つまり、最澄が比叡山に大乗戒壇の設立を求めたのは、
鑑真が命がけで伝えた「正しい戒律」というバトンを受け継ぎつつ、
それを天台宗独自の「大乗仏教の精神」によって、より生き生きとしたものに変え、日本の仏教をさらに発展させようとした、壮大な試みだったと言えるでしょう。
密教も大切にした最澄
最澄は、中国で天台宗を熱心に学んだだけでなく、密教も積極的に取り入れました。
日本に帰ってきてからも空海から密教を学び(一部いざこざもあったようですが)、
自分の天台宗に組み入れたのは、最澄が特定の教えにこだわらず、
様々な仏教の知恵を広く学び、日本に一番合う形で仏教を根付かせようとしたからでしょう。
密教の教えは「台密」という形で天台宗に残り、弟子たちが学んでいくことになりました。
まとめ
最澄の一生と彼の考え方は、今の私たちにも大切なことを教えてくれます。
新しいことに挑戦することを恐れず、様々な教えを学び取り入れ、
すべての人に仏様の教えを伝えようとした最澄の精神は、今も比叡山延暦寺に残り続けています。
最澄のお話、少しは分かりやすくなりましたでしょうか?
もし他に知りたいことがあれば、以下の文献を参考にしてください。
・最澄に秘められた古寺の謎 伝教大師と辿る比叡山と天台宗:山折哲雄 (編集), 古川順弘 (その他)
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