土地制度史①(初期荘園、寄進地系荘園、負名体制など)

歴史

土地制度史をまとめてみたいと思います。

今回は律令体制の初期荘園から、律令制の崩壊までとなります。

具体的には

公地公民制とは?

初期荘園とは?

負名体制とは?(田堵、名主、受領、目代、留守所、遙任、成功、重任など)

律令制の崩壊は単なる制度の破綻ではなく、時代の変化に適応しようとする中で生まれた、複雑な社会システムの変容でした。

中央集権的な国家の理想と、現実の地方社会とのギャップが、律令制を徐々に形骸化させていったのです。

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律令制の理想と現実のギャップ

律令制の根幹は、国が全ての土地と人民を直接管理する公地公民制にありました。

戸籍や計帳を作成して農民一人ひとりに口分田を分け与え、その耕作を通じて税(租・庸・調など)を徴収する仕組みです。

しかし、この制度には無理がありました。

人頭税である租・庸・調の負担は農民にとって重く

口分田を捨てて逃亡する者が後を絶たず、耕作放棄された田畑は増える一方でした。

広大な国土の隅々まで中央が管理することは非常に困難だったのです。


私有地の拡大と荘園の誕生

口分田が荒廃していく一方で、貴族や寺社、そして地方の有力農民(富豪の輩ふごうのともがら)は、未開の土地を自力で開墾し、私有地を広げていきました。

国も土地の荒廃を防ぐため、開墾を奨励する墾田永年私財法を出し、私有地の形成を後押しします。

こうして生まれた初期の私有地は、やがて初期荘園へと発展します。

ただし、この時点ではまだ国司による課税が基本でした。

そこで、税を免れるために、有力農民は開墾した土地の所有権を中央の権力者(貴族や大寺社)に寄進し、名義を借りる形で税負担を逃れようとします。

これが寄進地系荘園の始まりです。

※国司は中・下級貴族で、寄進を受けた中央の権力者は上級の貴族でしたので、国司でも立ち入ることができませんでした(不輸・不入の権利)

※醍醐天皇は最後に、延喜の荘園整理令を出し、公営田・官田などをつくって税収を上げて、律令制を維持しようとしましたが、結局無理でした。

寄進地系荘園から荘園公領制までは次の記事を参考にしてください。


地方政治への移行(負名体制と田堵、名主、開発領主)

10世紀頃になると、中央政府は戸籍・計帳による個人管理を諦め、地方の政治を国司に一任するようになります。※朱雀天皇の頃。

これは、中央集権体制から地方分権体制への大きな転換点でした。

この新しい体制のもと、国司は、国全体で一定の税額を中央に納める徴税請負人としての役割を担います。

逆に言えば、国司に一定の徴税をしてもらう代わりに、地方を一任する形にしたのです。

税の徴収を効率化するため、国司は人頭税から土地税へと課税方式を転換し、

田地を「名」という単位に区切って課税しました。(※人は逃げますが、土地は逃げないので…)

この「名」を耕作する有力農民が田堵(たと)です。

※気を付けてほしいのは、国司は貴族ですので耕作はしません。耕作するのはあくまでも農民です。

田堵ははじめ、国司から耕作を請け負う立場でしたが、

次第に耕作地に対する権利を強め、やがて土地支配権を持つ名主へと成長していきます。

さらに、田堵は違う土地を開墾して、その支配権も有するようになっていきます。

彼らは「開発領主」と呼ばれるようになりました。(12世紀頃)

大名田堵…耕作を担った田堵のうち大規模な経営を行っていた者

・開発領主…田堵経験を経た農民などが、みずから未開発の土地を開墾し、その土地の所有権を得た者

国司の変化

国司は地方を一任されたといいました。

こうして国衙(地方の役所)に赴任した国司を「受領(ずりょう)」と呼びます

国司は徴税権を担ったので、(不正をしたりして)お金を多く得る者もでてきます。

もちろん、国司の中には真面目に仕事をする人もいましたが、

一任されて監視の目が緩くなると、赴任地につかず別の人(目代)を赴任地に赴かせる遙任(ようにん)をする国司もいました。

※遙任国司の国衙を留守所(るすどころ)といいます。

また、国司の地位は向上したので、以下のように売官売位を行う風潮もありました。

成功(寺社の造営費を出すなどして、新たな官職を得る(=国司になる))

・重任(成功によって国司などに再任される)

遙任ではなく、実際に任地に赴いた国司の長官(守=かみ)は受領(ずりょう)と呼ばれ、彼らによる過酷な収奪も横行しました。

①尾張守(おわりのかみ)藤原元命(もとなが):「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」(988年)で31カ条にわたり訴えられ、翌年解任された。

②信濃守(しなののかみ)藤原陳忠(のぶただ):『今昔物語集』にその貪欲さを示す逸話が掲載され、「受領は倒るる所に土をもつかめ」という言葉が有名になった。

これに対抗するために田堵やその郎従が武装化し、小武士団を形成していくきっかけにもなりました。

この時期の郡司はどうしていたかというと、彼らの多くが在庁官人として国衙の行政を担うようになります。

今で言えば、都知事が国司だとして、都庁で雇ってもらう感じでしょうか。

彼らは、都から赴任する国司とは異なり、地方に根ざした在庁官人は、やがて地方の支配者としての地位を固めていきました。


律令体制の終焉へ

こうして律令制の根本をなす公地公民制は形骸化し、

土地は名主や開発領主によって支配される「名」の集合体となり、徴税も国司が請け負う土地税へと変化しました。

10世紀後半から11世紀にかけて、律令体制の理想は完全に崩れ、地方の力が台頭する時代へと突入します。

律令体制の崩壊は、日本が次の時代である武家社会へと向かうための、不可欠なステップだったのです。

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