本日は「ヨーロッパにおける中国観はどのように形成されたか」について説明していきます。
ヨーロッパの中国観は、長い歴史の中で様々な要因が複雑に絡み合って形成されてきました。
大まかに捉えると、以下のような段階と特徴が見られます。
断片的な認識と「東方」への憧れ (古代~中世)
古代ギリシャ・ローマ時代には、中国(当時は「セレス」と呼ばれた)は絹の産地としてぼんやりと知られていましたが、直接的な交流はほとんどありませんでした。
中世に入ると、イスラム世界を経由して中国の文物がヨーロッパに伝わるようになり、その豊かさや技術力の高さが伝えられました。
しかし、具体的な情報が乏しく、神秘的なイメージが先行していたそうです。
13世紀に入り、ある人物の本がヨーロッパに大きな衝撃を与えました。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』です。
マルコ・ポーロはアジアへ実際に赴き、さらに官吏として登用されたりしました。
そのなかで体験した中国などの富・文化・社会システムについて『東方見聞録』 にまとめました。
この記録ヨーロッパ人の中国観形成において非常に大きな影響力を持っていました。
※ただし、その記述は誇張されているでは?とも指摘されています。
宣教師による情報と理想化された中国像 (16~18世紀)
16世紀になると宗教改革が始まったことがきっかけでキリスト教の新しい宗派が生まれ、
従来から信仰されていたカトリックがピンチに陥ります。
その中でカトリックは世界への布教を始めます。
それが対抗宗教改革です。
特に有名なのはイエズス会(ザビエルなど)ですかね。
中国担当のカトリック宣教師は、中国へ布教を試みるとともに、現地の文化、政治、哲学などをヨーロッパに伝えました。
彼らは、儒教の合理性や中国の官僚制度の効率性を高く評価し、ヨーロッパの知識人に大きな影響を与えました。
この時期のヨーロッパでは、中国は啓蒙思想と結びつけて理想化される傾向がありました。
ヴォルテールをはじめとする啓蒙思想家たちは、中国の政治体制や道徳哲学の中に、
ヨーロッパの絶対王政や宗教的権威を批判する上で都合の良い要素を見出し、賞賛しました。
まだこの時点では「中国=遅れている」といった中国観は生まれていなかったようです。
植民地主義と「遅れた中国」という認識 (19世紀)
19世紀に入ると、ヨーロッパ列強によるアジアへの植民地支配が本格化し、中国もその影響下に置かれるようになります。
アヘン戦争などを経て、中国の軍事力や政治体制のもろさ・弱さが明らかになると、
それまでの理想化された中国像は一転し、「遅れた」「停滞した」国という認識が広まっていきました。
ヨーロッパ文明は「強い・正しい・進展している」といった認識が強化されていくとともに
中国(アジア)文明は「弱い・不正義・野蛮(遅れている)」といった見方が主流となっていきました。
今まで憧れの対象であった中国の文化や社会は否定的に捉えられるようになりました。
まとめ
ヨーロッパの中国観の特徴をまとめると、以下のようになります。
①二面性
歴史的に見ると、賞賛と批判、理想化と蔑視といった二つの側面が常に存在してきました。
どちらの面においてもヨーロッパの政治思想や社会へ中国観は影響していたと言えます。
ただ、情報には偏り(旅行記、宣教師の報告など)があったので、正確な中国が伝わっていたわけではないと思います。
②欧州の自文化中心主義からみた中国
二面性でとらえられた中国は、ヨーロッパの価値観や歴史観を基準に評価するようになっていきました。
特に19世紀以降の中国分割が始まってからは「欧州が進んでいて、中国が遅れている」といった中国観が生まれていきました。
日本人はアジアにいながら西洋寄りの思想を明治以降に展開してきました。
19世紀以降に関していえば、日本人による中国人観も似たようなものだったかと思います。
もし、自分の中にそういう感情があるのだとしたら、本日の記事を参考にその端緒を知っていただけたらと思います。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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