道元:『正法眼蔵』が示す「時間」と「存在」の超ふしぎな関係

未分類

みなさん、こんにちは。

普段、「時間」というのはどのようなものだと考えていますか?

過去から未来へ、どんどん流れていくもの。

時計の針がチクタク進むように、止めることも戻すこともできないもの。

そう考えている方がほとんどではないでしょうか。

しかし、約800年前に生きた道元(どうげん)というお坊さんは、私たちとはまったく違う角度から「時間」と「自分(存在)」について考えていました。

その考えが書かれているのが、彼が書いたとても分厚い本正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)です。

この本は、少し難しい内容ですが、道元が教えてくれる「時間」と「自分」の関係を知ると、日々の見方がガラッと変わるかもしれません。

今回は、皆さんにも分かりやすく、道元が探求した時間の謎と、その中に生きる私たちの姿を、楽しくひも解いていきます。


道元禅師とはどのような方だったのか?

テーマに入る前に、まずは道元禅師(どうげんぜんじ、1200-1253)という人物について少し知っておきましょう。

道元は、鎌倉時代(今から約800年前)の人物です。

この頃の日本は、武士たちが争いを繰り返し、非常に不安定な時代でした。

そうした中で、人々は心の平安や救いを求めていました。

道元は、中国に渡って「禅」という仏教を学び、それを日本に広めた方です。

彼の教えの一番大切なものは、「只管打坐(しかんたざ)」です。

これは、ただひたすら坐禅をするだけで、誰もが仏になれる(悟りを開ける)ということです。

特別な修行や知識がなくても、坐禅を通して真実に気づけるという教えは、当時の人々に深く響きました。

彼の思想が凝縮されているのが、先ほどの『正法眼蔵』です。

この本には、私たちが毎日感じる「時間」や「自分とは何だろう?」といった、非常に深い問いに対する答えが書かれています。


現代を生きる私たちが「時間」を考える理由

「時間」は、毎日当たり前のように存在するものです。

しかし、改めて考えると不思議ですよね。

  • 「テストまで時間がない!」
  • 「あの時、こうしていれば…(過去)」
  • 「将来、何になろうかな…(未来)」

と、私たちは常に時間に追われたり、過去を後悔したり、未来に不安を感じたりすることがあります。

今の時代は、スマートフォンやSNSなどで情報がどんどん流れ込んできて、なんだか時間が早く進んでいるように感じられます。

効率よく、多くのことをこなすのが当たり前みたいになっていて、

立ち止まって「時間ってそもそも何だろう?」とか「自分って一体何のために生きているのだろう?」と深く考える機会は、なかなか持てないかもしれません。

しかし、道元は800年も前に、私たちが今向き合うような、いやそれ以上に深いレベルで「時間」や「自分」について考え抜いていました。

『正法眼蔵』を読み解くことで、もしかしたら、この「時間のプレッシャー」から解放され、もっと毎日を楽しく、充実して生きるヒントが見つかるかもしれません。


『正法眼蔵』「有時」の巻:時間の超常識とは?

道元の時間論を学ぶ上で、最も重要なのが『正法眼蔵』の中の「有時(うじ)」という部分です。

ここには、私たちの「時間ってこういうものでしょ?」という常識を根底から覆すような、驚くべき考え方が述べられています。

時間は「移りゆくもの」ではない!?

私たちは普段、時間を「過去から未来へと一方的に流れていくもの」と考えています。

  • 「時間が過ぎる」
  • 「時間切れだ」

時間は私たちとは関係なく、どこかから来てはどこかへ去っていくかのように感じるものです。

しかし、道元は、この「勝手に流れていく時間」という考え方を否定します。

道元は次のように言いました。 「時(とき)が今、百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に在(あ)り

言葉を分解して考えてみましょう。

・「時が今」: これは文字通り、「今この瞬間」を指しています。過去でもなく、未来でもなく、まさに「ここ、現在」です。

・「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)」: これは「百尺(約30メートル)もある高い竹竿の、一番先端」という意味です。想像してみてください。細くて不安定な竹竿の、一番高い場所に立っている状態です。

この二つを合わせると、「時間というのは、今この瞬間、まさにその一番高い竹竿のてっぺんに、しっかりと存在している」という意味になります。

言い換えると、「時間というのは、今、まさにこの瞬間に、最も高いところに堂々と存在している」という意味です。

「今、この瞬間」こそが、時間の中で最も極まり、最も充実し、最も大切な瞬間なのだと説いています。

まとめると「時が今、百尺竿頭に在り」は、「時間とは、過去から未来へただ流れていくものではなく、今この瞬間が、最も大切で、最も輝き、すべてを含んでいる究極の場所なのだ」という道元の深い洞察を伝える言葉なんです。

私たちはつい、過ぎ去った過去を悔やんだり、まだ来ない未来を心配したりして、「今」を軽んじがちです。

でも道元は、「今」この瞬間こそが、私たちの「時」そのものであり、最も価値のある場所なんだよと教えてくれているんですね。

だからこそ、一つ一つの「今」を大切に、心を込めて生きることが重要だ、というメッセージが込められているんです。

「時」と「存在するすべてのもの」は、実は一体である

「有時」の巻で、道元は非常に有名な言葉を残しています。

「時、すなわちこれ有(う)なり」 「有、すなわちこれ時なり」

これは、「時間とは、まさにそのもの(存在しているもの)である」という意味です。

そして逆に、「もの(存在しているもの)とは、まさにその時間である」とも言っています。

どういうことでしょうか?

たとえば、今、目の前に「イス」があるとしますね。

そのイスは、過去のイスでも、未来のイスでもありません。

まさに「今のこのイス」としてそこに存在していますよね?

道元は、この「イスが今ここにある」という事実そのものが、時間なのだと説くのです。

イスがあることと、時間が流れていることは、別々のことではありません。

イスがあること、それ自体が時間なのです。

つまり、時間とは、単なる入れ物や背景ではないのです。

「世の中のありとあらゆるものが、まさにその姿として、今ここにあること、それ自体」が、時間なのです。

私たち人間も、動物も、植物も、山も川も、そして宇宙に存在するあらゆるものも、すべてが「今、ここに存在している」というあり方そのものが、時間なのです。

時間と、存在しているものは、切り離すことのできない、一体の関係にあるのだと道元は説きました。

「一瞬一瞬」が宇宙まるごと

道元は、「刻々(こくこく)」という言葉を非常に大切にしました。

これは、「一瞬一瞬」という意味ですね。

私たちは、「1秒、また1秒」と、時間が細かく区切られて流れていくように感じます。

しかし道元は、それぞれの「刻々」、つまり「今、この一瞬」が、実は独立した完璧な時間であり、その中に宇宙全体が含まれていると考えるのです。

これは、「今」という瞬間に意識を集中することの重要性を示しています。

過去の積み重ねが「今」であり、未来の始まりも「今」です。

だからこそ、「今」というのは、無限の可能性を秘めた、最も充実した時間なのです。


「時間そのもの」と「只管打坐」

道元が説いた「只管打坐」は、彼の時間論を実践する具体的な方法です。

「只管打坐」とは、ただひたすら坐るだけ。

坐禅中に何かを期待したり、特別な体験を求めたりするのではなく、ただ「今、坐っている」という行為そのものに徹します。

この実践を通して、私たちは「考える私」「判断する私」という部分を超え、

ただ「今ここに存在している私」という根源的なあり方に気づくことができます。

そこでは、過去への後悔や未来への不安といった時間の囚われから解放され、時間そのものである自己と一体になる感覚を体験できると道元は考えました。

只管打坐は、私たち自身が時間そのものであることを深く自覚し、「今この瞬間を、あらゆるものの現れとして、最も充実して生きる」ための実践なのです。

※ちなみに、「只管打坐」は「日常のすべてが修行である」と考える人もいます。

起きること、掃除をすること、食事をすること、などその一つ一つが「この瞬間を生きている」と感じるための修行であり、只管打坐なのです。


現代社会で「道元の時間」を生きるヒント

道元の時間論は、私たち現代人が抱える「時間への焦り」や「存在の不安」に対する、大きなヒントを与えてくれます。

マルチタスクより「ひとつのことに集中」

現代社会では、複数のことを同時にこなすマルチタスクが求められがちです。

しかし、道元の時間論からすれば、それは一つ一つの「時(存在)」を薄めてしまう行為かもしれません。

道元の教えは、「今、目の前のことに、ただひたすら集中する」ことの重要性を説きます。

食事をするなら食事に集中し、勉強するなら勉強に集中する。

一つ一つの行為を「その時そのもの」として、全身全霊で味わうことで、時間はより深く、充実したものになります。

過去や未来に囚われず「今」を大切にする

私たちはしばしば、過去の失敗を悔やんだり、まだ来ぬ未来に不安を感じたりして、「今」を犠牲にしがちです。

しかし、道元は、過去も未来も「今」の中に凝縮されていると説きました。

「今」という瞬間を深く生きることが、過去を受け入れ、未来を形作る唯一の方法なのです。

後悔や不安に囚われるのではなく、「今、自分にできること」に意識を向け、そこに全力を注ぐことで、私たちの「時」は輝きを増します。

「当たり前」の中にこそ「時間」を見つける

道元の哲学は、日常の「当たり前」の中にこそ、深い真理が隠されていることを教えてくれます。

朝、太陽が昇ること、鳥がさえずること、友達と話すこと、ご飯を食べること……。

これらの一つ一つの出来事すべてが、かけがえのない「時(存在)」そのものであり、私たちはこの瞬間を生きているのです。

私たちは普段、当たり前すぎて意識しないかもしれないこれらの瞬間に、「時間」と「存在」の深さを見出すことができます。

それは、特別なことをしなくても、日々の暮らしの中で「時間」を豊かにする道なのです。


終わりに:永遠の「今」を生きる

道元の『正法眼蔵』が示す「時間」と「存在」の捉え方は、私たちに、時間の流れにただ身を任せるのではなく、自らが「時」そのものであることを深く自覚するよう促してくれます。

過去でも未来でもない、永遠の「今」という瞬間に意識を集中し、一つ一つの行為、一つ一つの出会いを「時」の現れとして大切に生きる。

それは、忙しない現代社会の中で、私たちが心の平安と真の充実を見つけるための、確かな道しるべとなるでしょう。

道元の言葉は、遠い昔の教えではありません。それは、今を生きる私たち一人ひとりの心に深く響き、日々の「時」を、より豊かで意味深いものに変える力を秘めているのです。

(参考文献)

・『正法眼蔵』(道元)※全8巻

・『NHK「100分de名著」ブックス道元 正法眼蔵―わからないことがわかるということが悟り』(ひろ さちや著)

コメント

タイトルとURLをコピーしました