土地制度史④:中世の土地制度 — 荘園から守護・地頭まで

歴史

こんにちは。

本日は鎌倉時代を中心とした「中世の土地制度」に関する記事です。

「土地制度」と聞くと難しそうに感じるかもしれませんが、全体像がわかると理解できます。

今回は大きな流れがわかるように、具体例を交えながら説明していきます。

最後までご覧ください。


荘園の誕生と拡大(物語の出発点)

時代はさかのぼって奈良時代。

743年、朝廷は「墾田永年私財法」という法律を出しました。

これは「新しく開墾した土地は、持ち主のものにしていいですよ」という画期的なルールです。

この結果、開墾を進めた貴族や寺社はどんどん私有地を持つようになり、

平安時代に入ると「荘園」という形で全国に広がっていきました。

京都に住む藤原家の一族や、比叡山延暦寺のような大寺院が、遠くの肥沃な土地を手に入れて、

そこで収穫される米や特産品を都に送らせる。

ただし問題があります。

遠くの土地では、朝廷の役人(国司)も、都の貴族も現地にいません。

誰が農民をまとめ、年貢を集め、治安を守るのか?これが次第に大きな課題になっていきました。


荘園公領制という二重構造

奈良時代から平安時代にかけて日本の土地は大きく分けると二種類ありました。

  • 荘園:貴族や寺社、院(上皇)などが所有する私的な領地
  • 公領(国衙領):律令制の名残りで、国司が管理する公的な領地

しかし現実には、荘園と公領の境目はあいまいで、ひとつの土地に複数の権利者が重なっていることも珍しくありませんでした。

これをまとめて「荘園公領制」と呼びます。

たとえば、九州のある村「田中村」(架空)では、京都の貴族Aが「ここはうちの荘園だ」と主張しつつ、

国司が「いや、ここは国の土地だ」と言い張ることもある。

農民からすると「どっちに年貢を納めればいいの?」という状態になります。

こうした混乱は、のちに武士が現地に入り込む余地をつくることになりました。


守護・地頭の登場(鎌倉幕府の仕組み)

1180年、源頼朝が平家打倒の旗を挙げます。

鎌倉に幕府を開くと、地方支配の仕組みとして「守護」と「地頭」を全国に配置しました。

これが中世土地制度の転換点です。

ここが重要ポイントです。

  • 守護(しゅご):国単位(令制国ごと)に置かれ、治安維持・軍事動員・謀反の監視など、いわば当時の「県警本部長」的役割
  • 地頭(じとう):荘園や公領ごとに置かれ、年貢の徴収・土地管理・農民の統制など、現場の「税務署長+現地責任者」的役割

つまり、守護は国レベルの広域管理、地頭は村レベルの現場管理というイメージです。


具体例:田中村で見てみよう(続き)

再び田中村に戻りましょう。

この村は京都の貴族Aの荘園です。

平家滅亡後、鎌倉幕府が成立し、頼朝は御家人Bをこの荘園の地頭に任命しました。

Bは村に常駐し、農民から年貢を集めて鎌倉に報告します。

ところが、Bが徴収する年貢は当初の約束より多くなり、貴族Aと対立します。

貴族Aは幕府に訴えますが、幕府は自分の御家人Bをかばいます。

こうして地頭の権限が次第に強くなっていきました。

こうしたトラブルを回避するため、荘園領主が「じゃあ、もう全部任せるから毎年決まった額だけ送って」と契約する方式が登場します。

これが地頭請(じとううけ)です。

領主にとっては毎年の収入が安定し、地頭にとっては現地支配が合法化される

ウィンウィンに見えますが、長い目で見ると領主の力が弱まり、地頭が事実上の支配者となる道を開きました。


守護の役割も変わっていく

守護もまた、当初は軍事・治安維持に限られていましたが、

室町時代に入ると「守護領国制」と呼ばれる形で国全体を支配するようになります。

守護が農民から直接年貢を取り立てることもあり、やがて「守護大名」として一国規模の領主に成長します。

つまり、地頭が在地の支配権を強めたのと同じように、守護も権限を拡大し、従来の貴族・寺社の土地支配を侵食していったのです。

これが戦国時代の大名につながる流れです。

具体例:現代に重ねて考える

ここまで見てきた荘園・守護・地頭の話、どこか現代の会社組織にも似ていませんか?

  • 京都に住む貴族=本社
  • 地頭=地方支店長
  • 守護=県警本部長(兼支社統括)

本社が遠隔管理しようとしても、現地の実務を握っているのは支店長(地頭)。

支店長が力をつけると、やがて本社よりも現地で発言力を持つようになる。

この構造が、中世の土地制度でも起きていたのです。

まとめ

今回の内容をまとめます。

  • 墾田永年私財法(743年)で私有地が拡大し、平安時代に荘園が全国に広がった。
  • 荘園公領制という二重構造が生まれ、農民は複数の権力に年貢を納めることもあった。
  • 鎌倉幕府は「守護」と「地頭」を全国に置き、地方支配の骨格を作った。
  • 地頭請などを通じて地頭が力を強め、やがて現地支配者=戦国大名の萌芽となった。
  • 守護もまた権限を広げ、守護大名へと成長した。

こうして、奈良・平安から鎌倉、室町へと、土地制度は貴族中心から武士中心へ、さらに戦国大名へと流れていきます。

ここまでご覧いただき誠にありがとうございました。

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