こんにちは、よっとんです。
歴史・哲学倫理・心理、本紹介のブログを書いています。
今日は、内村鑑三【日本の代表的なキリスト者】についてです。
日本ではあまり普及しなかったキリスト教。
ただ、内村は日本こそキリストの教えを根差すことのできる国だと考えていました。
日本にキリストの精神を普及し、日本の真価を世界へ伝えようと活躍した人、それが内村鑑三です。
生涯
まずは彼の生涯をみていきましょう。
鑑三の幼少期~青年期
1861年内村鑑三は、上州(群馬県)高崎藩士の長男として江戸で生まれました。
鑑三の母ヤソは、鑑三自身の言葉を借りれば、「仕事狂い」。
つまり、仕事=人生という人物だったらしいです
また、祖母譲りの八百万の神々(※日本の多神を表す言葉)への信仰をもった母でもありましたので、鑑三の宗教に対する態度は彼女から引き受けているかもしれません。
鑑三の父は、厳格な儒教主義者でした。
鑑三は父から、儒教の精神と武士道を教わって育ちます。
なんといってもびっくりなのは、
数え年5歳のとき、『大学』(儒教の書で「四書」の一つ)を読みはじめている・・・すごい!
父の儒教的な倫理・武士道の精神の教育が彼の主張の根幹になります‼これについては後程、詳しく説明しましょう。
小さい頃は川魚が好きで、よく捕獲にいっていたそうです。
意外と知られていないですが、彼は札幌農学校卒業後、初めの仕事は水産業に就き、そこで鮭や鱈などの漁業の調査を行うことをしています。
実は、その後のアワビの繁殖に関する調査は「我が国の水産業に関する科学的研究はこの調査書から始まった」と言われるほどの優れているものだったのです。
水産業への好奇心の萌芽は幼少期の河魚捕獲の時からきているとみて間違いないでしょう。
さて、大学生になった鑑三は父から政治家になるために、大学で法学を学ぶことを期待されます。
そのため東京外国語学校(現東京大学)に入るのですが、途中で気づきます。
「あれ、法学は向いてない…」
その時、転機が訪れました。
それが札幌農学校第2期生の募集でした!
当時まだ未開拓地だった北海道を開拓するためのメンバーを募ることが目的なので、
札幌農学校の入学も国が出してくれます。
かつ、開拓作業をすれば給料も出るいうものでした!!
内村は官費であること・北海道という未開の地を開拓できることにワクワクしました。
こうして彼ははるかかなたの札幌農学校へ向かうことになったのです!
札幌農学校時代
札幌農学校(現:北海道大学)は、アメリカ元軍人のクラークが建てた学校で、実証的な科学を重んじるところでした。
アメリカ人教師がいて、本格的な英語教育が受けられます。
何より、労働(開拓作業)をすれば、お金がもらえましたので、ここで内村たちは自分の欲しいものを買うために一生懸命働きました。
内村が当時欲しかったのは、百科事典!
そのために汗水流して働き、彼は途中で倒れてしまうほどだったらしいです(笑)
内村は、勉学も決して手を抜きませんでした。
彼は、他の人と同じくらい働いているのに、成績はだれよりも優良。
なんと、試験の一週間前にはすべての勉強が終わっている状態だったそうです。一夜漬けなんて絶対にしない。恐るべし。
親友の一人は「規則正しい勉強」と「あらかじめ準備しておくこと」を内村は徹底していたといいます。
グサッグサッ刺さりますね。すごすぎ、内村さん。
札幌農学校では他にキリスト教を教えます。
クラークは道徳教育はキリスト教でしかできないという考えをもっていましたので、一人一人に聖書を配っていました。
それから、生徒に「イエスを信ずる者の誓約」と「禁酒禁煙の誓約」を書かせました。
内村の入る時は、クラークはすでにいなかったが1期生に誓約書を渡されます。
しかし、内村は自国の神以外に信じない、という理由で初めは宣誓書に署名しませんでした。。
でも、友人たちはみんな入信していく・・・。
結局、寂しくて、自分の意思に反して入信することにしたのでした。彼は洗礼も受け、ここからキリスト者としての内村鑑三が始まりました。
内村たちの信仰のあり方は質素なものでした。
「おもちゃの教会」と呼んでいた小さな集会で信仰をしていました。
形は貧しく不備もあるものでしたが、民主的で、独立的、それから聖書本位の性格をもつものでした。
派手な教会がなくても、聖書を自分たちで読めれば十分。
この考えが内村の無教会主義に繋がっていきます。
内村はこの札幌農学校で大親友を二人つくっています。
後に国際連盟で事務局次長になる新渡戸(太田)稲造
北海道帝国大学植物学教授となる宮部金吾
です。
内村は「札幌三人組」と呼んでいました。
内村が同級生と喧嘩をしてイライラした時、ストーブの上にある土瓶を手に取り、宮部に聞きます。
「このストーブの上にあるたたき割ってもいいか?」
宮部は答えます「よいとも!」
「これでせいせいした!」
内村は答えました。
この少しの応対でも仲良しなことが伺えますね。
こうしてよき友を得た内村は充実した学校生活を終えたのでした。
渡米
内村たちは札幌農学校を無事卒業しました。
おもちゃの教会も同時に解散しましたが、教派を超えた合同教会を形成しました(札幌独立教会)
ここでは、
- 教派主義による分裂や競争はできない
- 厳格な信仰
- 煩雑な礼拝儀式はなし
- 福音伝道は外国人だけでなく日本人も義務
など、従来の教会にはない新しい制度を取り入れていました。
日本のプロテスタンティズムの萌芽はここから生まれました。
幼少期編でも言いましたが、卒業後の内村は水産業の仕事をしていました。
もちろん、仕事の成果も十分だし、給料ももらえていましたが、彼は心の中の空虚に苛まれていました。
その後、東京へ帰り、生物学の研究をしたり、ある時は農学の教鞭をとることもしましたが、
どれもいまいちのれず、経営も振るいませんでした。
その頃、浅田タケと出会います。最初の妻になる人です。
両親の反対もあったのですが、内村が農商務省に入り生活が安定したことや、二人の純愛を理解してもらったことで、新島襄の仲介で何とか結婚することができました。
ただ、この結婚生活は長く続かず・・・すぐ破局してしまいます。
内村はとてもショックを受けます。
「主は私を棄てた」とさえ思ったそうです。
心の空虚の正体、それから運命に見放されたと考えた内村はアメリカへ行き、救いを求めます。
新島襄のすすめでアマースト大学へ留学することになるのですが、そこで、彼の心を苦しめる難問が解決にすることになります。
彼の心を救ってくれた人物こそ、アマースト大学の総長のシーリーでした。
内村はシーリーに言われました。
「内村よ、君は君の内ばかりみているからいけない。君は君の外をみなければいけない。なぜ己を顧みることを止めて、十字架の上に君の罪を贖い給いしイエスを仰ぎみないのか。君がやっていることは、子どもが植木を鉢に植えてその成長を確かめようとして毎日その根を抜いてみているのと同じである。なぜこれを神と日光とに委ねて、安心して君の成長を待たないのか。」
内村はこの言葉に救われたのです。
内村は、信仰心は確かにありました。内村の空虚の原因は、信仰心はあるにもかかわらず、なぜ救われた心地がしないのかというものでした。
しかし、彼は気づきます。
「私は、神の義と正とを信じたけど、全愛を知らなかった」と。
簡単に説明しましょう。
キリスト教では、「アガペー」というものがあります。
これは私たちに無差別・無償に注がれる神の愛です。
この全愛は、人間の善行の有無にかかわらず注がれるものであって、人間が善行を為す為さないに関係ないのです。
内村は、神の義に対して、善行で返そうとしていました。つまり、神との対等な関係を築こうとしていたのです。
ただ、シーリーの言葉で、そのこと自体が傲慢であったことに気づくのです。
彼の言葉を受けてから内村は吹っ切れます。全てを神にささげる姿勢でいようと回心したのです。
そして、この回心後、内村はより日本のことを思うようになるのです。
神は欧米の占有ではないはずだ、神は日本にも恩恵をくれる、日本の神でもある、
キリストの精神によって、日本を清めること、これが彼のあらたな使命となっていくのです。
不敬事件
内村がアメリカから帰国ししばらくして第一高等学校の嘱託教員となります。
彼はその生徒に対しても聖書を配り、キリストの愛を説きました。
しかし、時代は国粋主義・国家主義が強まっていた1880~90年代。
この頃は、教育勅語を各学校へ配り、また天皇を神格化する流れが強まっていました。
いわゆる国家神道です。
政府はこの流れをさらに推進するために、各府県に天皇皇后の写真を配り、また天長節祝賀式には読式をする儀式が整備されました。
そして、内村、それから日本中のキリスト教徒を巻き込む事件は1891年に起きました。
第一高等中学校の教師であった内村は、教育勅語捧読の際に明治天皇直筆の署名がある勅語書への敬礼をしなかったのです!※実際は少しだけ頭を下げたらしいです。
彼はなぜしなかったか。それはキリストのみが彼にとっての神だからです。
彼は後にこう言っています。
面倒になりそうだと前からわかっていたのでキリスト教の同僚は当日わざと休んだんだよ。僕も休もうかと思ったけど、できなかった。 いよいよ僕の番がきた時、ずいぶんためらった。よほどお辞儀しようとおもった。しかし当時はすでに僕に頼っていた学生が十数名いて、じっと僕を見ているのだ。それをおもったときどうしてもお辞儀はできなかった。僕はちょっと頭を下げた。それからあんな騒ぎになった。
ベルに送った自伝的書簡
この文章からも内村の人のよさが伝わります。
内村はこの後心労により辞職します。
ただ、この不敬の出来事は社会問題へと発展しました
当時は国家神道が中心の世の中、だから「キリスト教徒=国家に反する輩」という烙印を押す国家主義者が多くいました。
東京帝国大学の井上哲次郎は、雑誌「教育時論」に「キリスト教は愛国心に背くものである」と説きましたし、
キリスト教徒というだけで会社をクビになることもありました。(=これらの出来事を不敬事件といます。)
(※政府側もこの事件を利用してキリスト教信仰を止めようとしたという説もあります。)
ただ、内村はよりキリストとの結びつきを強固なものにしました。
彼はのちに評論家として活躍するようになります。
日清戦争と日露戦争
内村の日清戦争・日露戦争の立場を説明します。
意外かもしれませんが、内村ははじめ日清戦争は賛成していたのです。
雑誌『国民之友』で
「日本が朝鮮政治に干渉するのは、「世界の最大退歩国(=清)」が朝鮮を独占しようとして文明諸国の影響が朝鮮に入るのを妨害しており、そのため朝鮮人民は暴政と無知の中に苦しんでいる、その苦しみから朝鮮を救い出さんがためである。」と言っています。
この時点での内村は、日本の役割は、西洋文明を文明の進歩に取り残された東洋に伝えるべきという立場にいます。
今ではオリエンタリズムといわれ、「西洋文明=新しい=善い」という考えに疑問を持つ人も増えていますが、当時の日本は、福沢諭吉も含め西洋の文明こそ進歩的と考える人が少なくありませんでした。
とにかく、この時点では内村は戦争を認めていたのです。
しかし、戦争が終わりに近づくにつれ、内村は懐疑的になります。
後の下関条約で明らかになりますが、戦争の目的が実は自国の領土的・経済的野心を満足させたいというものだったことがわかると、内村は義戦といったことを深く後悔します。
彼は次の日露戦争で非戦論を貫き、戦勝に酔う国民を厳しく批判する態度をとりました。
そして、戦争には絶対反対論者の立場をとることになります。
余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対反対論者である。戦争は殺すことである、しこうして人を殺すことは大罪悪である、しこうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずがない。……その目的たりし朝鮮の独立は、これがために強められずしてかえって弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に加速され、その道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ち来たったではないか。この大害毒、この大損耗を目前に見ながら、なおも主戦論を主張するがごときは、正気の沙汰とは思えない。
「戦争廃止論」
その後の彼の行動は、キリストの精神の普及と、それから戦争反対を掲げるものでした。
軍国主義に対する彼の闘いは69歳で亡くなるまで続いたのです。
内村の思想
次に彼の思想をご紹介します。
二つのJ
内村にとって命を捧げる対象は二つあります。
一つがJapan(日本)
一つがJesus (イエス)
そう、「二つのJ」です。
内村は世界の中の日本がいかにあるべきかを探究しました。
探求の結果、まず日本がすべきなのは、自分の国だけを見てしまう狭い価値観(国家主義的な考え)から解放されることだと考えました。
ただ彼は「日本国を愛するな」と言っているわけではありません。
「愛する」ということ自体に本来差別はないはずです。
だから、本当の意味で日本を愛することができるなら、そのほかのもの(世界・人)を愛することもできるはずなのです。
つまり、日本を愛することは博愛主義につながります。
彼の言葉で有名な言葉が次のものになります。
「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のため」
日本のために献身を尽くすことと、キリストへの愛は繋がるもの。
ここに彼の思想の根幹があります。
もう一つ、有名な言葉を紹介します。それが
「武士道の接ぎ木されたるキリスト教」
幼少期から武士道の精神・儒教精神を彼は教育されていたといいましたが、
彼はその武士道精神(あるいは儒教的精神)のあり純粋で誠実さを大切にする日本こそ、
キリスト真なる教えが根付くはずだと考えました。
アメリカに行ったとき、彼はアメリカ人のお金にどん欲な様子や低俗さをいやというほど見ました。
時には「ジャップ」(差別用語)を言われたこともあるそうです。
内村は日本にはすでに勇気・節操・正直・清廉・忍耐などの精神がそろっているといいます。
この土壌にキリスト教という苗を植えれば、すくすく育つはず、そう考えました。
この言葉には、日本的なキリスト教を確立しようとする内村の思想が伺えます。
身分制を抜きにした儒教思想・武士道の精神を彼はキリスト教と結合させたのです。
無教会主義
彼は無教会主義を説いています。
これはその名の通り、教会は必要ないということです。
カトリックは壮大な教会を建てたりします。
制度としての教会や儀式を批判します。
彼は聖書中心主義の立場です。聖書があれば十分であるということです。
神は皆の前に開かれているので、わざわざ教会を仲介する必要はないのです。
まとめ
いかがだったでしょうか。
内村鑑三は生涯と共に思想を見ていくとより分かりやすくなると思い、少し生涯が濃くやりました。
思想は二つのJ、無教会主義の他に非戦論(戦争絶対反対論者)があります。
彼の思想は当時はあまり受け入れらるものではありませんでした。
日本のキリスト者は1%程度です。
ただ、今彼の思想を見直したときに、その熱意からあふれてくる言葉が光輝いているのです。
さて、最後になりましたが、
僕が一番紹介したい、『後世への最大遺物』をご紹介します。
これは内村が若者に向けて講演したものです。
私が考えてみますに人間が後世にのこすことができる、そうしてこれは誰にものこすことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であるとおもいます。……
高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわち、この世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中であらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。
『後世への最大遺物』「近代日本思想体系6」筑摩書房
最後までご覧いただき誠にありがとうございました。
他にも記事を書いてますので、ぜひご覧ください。
参考文献
☆『人と思想 25 内村鑑三』関根 正雄 (著) 清水書院
☆『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村 鑑三 (著), 鈴木 範久 (翻訳) 岩波文庫
☆『人生、何を成したかよりどう生きるか』内村鑑三 (著), 佐藤優 (著)文響社
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