女性差別はどう作られてきたか?

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こんにちは。よっとんです。

心理学・哲学倫理・歴史、それから本紹介のブログを書いています。

今回は女性差別はどう作られてきたか?を書いていきます。

西洋と東洋の女性差別の作られ方を簡単にまとめましたので、ぜひ最後までご覧ください。

参考文献は、中村敏子さんの書いた『女性差別はどう作られてきたか』です。

西洋における女性差別

まずは、西洋における女性の差別を見ていきましょう。

皆さんの中には、西洋より日本の方が差別は根強いと思われている方もいるかもしれません。

確かに、現在、多くの欧州で女性の社会進出が日本より進んでいるとイメージがあり、

女性差別の印象が薄いかもしれません。

しかし、歴史的にはそんなことはありませんでした。

まず、西洋の差別の起源は、キリスト教にあります。

聖書の「創世記」には

アダムの肋骨からイヴが生まれた」という記述があります。

ここからは、イヴ(女性)は元々アダム(男性)のものだったという解釈が可能です。

実際に、女性は男性の補助的役割であるという考えに繋がっていきました。

また、イヴがアダムよりも先に蛇にそそのかされて知恵の実をたべたという記述もあります。

その後、二人は楽園を追放されるのですが、 

ここから、女性は誘惑に負ける劣った存在であるという解釈がなされていきました。

聖書の真意は定かではありませんが、後世の人が以上のような解釈をしていったのです。

例えば、16世紀頃、宗教改革を起こしたルターは、

「男性は太陽と同じく優れた存在なのは当然で、神がそのようにつくったのだから、人間はそれを変えることはできない」

というようなことを言っています。

これは、先ほどの『聖書』の解釈を引き継いでおり、少なくともルターは男性の女性支配を否定しませんでした。

また、17世紀~18世紀の政治改革時には、ジョン・ロックが

「「自然状態」は神の管理下なので、女性が男性に支配されるべきである。男女は性による契約を結び、家族となり、女性は男性の所有物となる。」

というようなことを言っています。

高校までの教科書ではこういう所は全く学びませんので、

ジョン・ロック=経験論者、社会契約の提唱者などのイメージだけ残っている人も多いと思いますが、

実は、こういう側面もあったんですね。

18世紀には啓蒙思想家で有名なブラックストンが、

「女性はあくまでも合意の上で男性の物になるはず。だから自由はあるはずだ。また女性は男性の物になることですべての責任を放棄できる。」

ということを言っています。

厄介なのは、西洋ではこういう思想を基礎として法律が整備されていったことです。

そして、西洋は契約を重んじる文化です。

つまり、女性の物は男性の物となるという法律が施行され、それを基に契約が履行されていきました。

例えば、女性の財産権は男性が有していました。

それから、女性から離婚することもできず、家庭内暴力を受けても黙っているしかありませんでした。

西洋の女性差別は思想と法の二つがセットでしたから、とても根深いものとなったのです。

さて、次に日本を見ていきましょう。

日本の女性差別史

「日本の女性差別はいつ頃からか?」

皆さんの中には、日本は昔から女性への差別が強かったと思われる人が多いかもしれません。

もちろん、個々を見てみれば女性への蔑視をしていた人もいたでしょう。

しかし、江戸期までの日本の男性と女性の関係は明治以前までそれほど悪いものではありませんでした。

江戸期までの日本

江戸期までの日本の女性への差別はそれほど悪いものではありませんでした。

理由は「家」制度にあります。

西洋では、女性と男性が契約をすることにより、法的に女性が男性の物となると説明しましたが、

日本では西洋のような契約文化はありませんでした。

では、どういう形で結婚がされたのかといえば、

女性が男性の「家」に入る(嫁ぐ)というものでした。

そして、江戸期までの日本で重要とされたのは、男性ではなく、「家」でした。

「家」を代々引き継ぐために、女性は男性の「家」に入って仕事を行いました。

ここでは、男女は役割を分担して仕事を行っており、女性は「家」の家系を任されることが多かったようです。

また、「家」の継承者を産んで育てていきました。

もちろん、主に男性が継承者でありましたし、女性側が男性の「家」に入るので、

その点を差別としてしまうこともできますが、

これは、女性が精神的にひどい扱いを受けていたということにはなりません。

逆に、

  • 女性が「家」の当主になることも可能だったこと
  • 飛び出し離婚が多かったこと
  • 再婚も約50%と多かったこと

などから、女性にもある程度の自由がありました。

それは、江戸期までの日本で重要視されたのは、「男性性別」ではなく「地位(家)」だったからです。

何より、女性の財産権は男性が持っていなかった(女性のもとの「家」にあった)ことが、

女性が支配されていなかった証拠といえます。

これはもし男性が亡くなってしまった場合、あるいは離婚した場合の保険なのです。

江戸期までをまとめると

女性は男性の「家」に入る。

①「家」の中では、職業分業制
②「男性」だからではなく、「家」の当主であること(性別<地位)が重要だった。

というものでした。

こういった習慣からも、女性が男性を支配する構造である「家父長制」とは少しほど遠いものといえます。

では、このような家父長的な制度が生まれたのはいつなのか?

それを次にみていきましょう。

明治以降の日本

江戸期までの日本が「家」制度だったため、女性に対する男性の支配構造はあまりありませんでしたが、

問題は、明治以降です。

明治以降は日本は西洋の文明を取り入れていく・・・

そうです。

西洋の女性の物が男性の物であるという考えが根付いた思想や法律が入ってくるのです。

日本の明治政府は、とにかく西洋の文明国家に追いつきたい!という想いもありましたので

とにかく急いで制度改革を行いました。

例えば、民法では、西洋のような家父長制を理想とした形で制定されていく案がありました。

夫婦同姓にし、契約で結ばれた女性は「配偶者」という扱いになる、ということを明記しようということです。

また、戸籍制度も変わりました。男性を戸主にして、戸主を中心に税などを取ろうというものです。

しかし、この辺りは先ほどの「家」の当主がそのまま「戸主」に変わっただけでしたので、

それほど大きな変化はありませんでした。

問題は、選挙権・参政権と教育の分野です。

選挙権・参政権は法律により男性に限定されていきました。

女性に選挙権・参政権が与えられるのは、戦後です。

また、女性ははじめは教育を受ける権利がありませんでした

ただ、江戸期までも女性はあまり寺子屋に行って学ぶということはしませんでしたが、

一応家の中で子供に教育するために女性はある程度の教養を身に付けていました。

明治期の途中から、女性にも学校行きが許可されていきますが、

ナショナリズムの高まりを背景に、日本の女性には「良妻賢母」教育が実施されていきました。

女性に、夫を支えるよき妻としての役割と子どもを育てる母としての役割を徹底させために教育されたのです。

したがって、江戸期までの日本にはなかった「性別」による差別がここに誕生することになります。

そして、ここでのポイントは、この「性別」で差別するありかたは、日本の場合、法律によってうまれたということです。

日本は思想からではなく、法律・制度から男女間の差別を生んでいったのです。

さらに、これに拍車をかけたのが、産業革命です。

産業革命により今までの「家」制度が崩壊します。

なぜなら、男性が外に「労働者」として働きに出るからです。

そして、「家」には女性が取り残されました。

従来の「家」では男性と女性は仕事・役割を分担していました。

しかし、産業革命後は、

男性=仕事、女性=妻、母という役割が徹底されていくようになりました

これが、昭和期の高度成長期に専業主婦というものを生んでいった原因といえます。

そして、この事実こそが日本の女性の社会進出を遅滞させていきました

以上、日本の女性の差別の作られ方でした。

まとめ

西洋と日本の女性差別のつくられかたを簡単にまとめてみましたがいかがだったでしょうか。

西洋のキリスト教を根拠とした思想的な差別は、法や契約文化でより強固なものとなっていきました。

だからこそ、日本でないほどの大きなフェミニズム運動を生み出していきました。

日本の場合、その西洋の思想や法を取り入れたことで

江戸期までの職業的差別だったものが、性的な差別に代わっていき、

いつしか根強い習慣として女性差別をつくっていきました。

今回の記事は細かい所は省き、皆さんに差別がどのようにつくられたかの大枠を知って頂けたらとおもってつくりました。

また、西洋は平等で日本は差別的だったという偏見を解くものにもなったかと思います。

今回の記事を学び、では今後どうしていくべきかを考えていきましょう。

最後までご覧いただき誠にありがとうございます。

もう一度参考文献を載せておきます。ぜひご覧ください。

『女性差別はどう作られてきたか』 著:中村敏子 (集英社新書)

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