こんにちは、よっとんです。
哲学倫理・歴史・心理学、それから本紹介のブログを書いています。
本日は「江戸3大改革の要点」というテーマでやっていきます。
このブログでは以下のことがわかります!
- 江戸期の改革のそれぞれの要点と全体像
細かい政策の説明は一切に抜きにして、要点だけをまとめます。
最期までぜひご覧ください!
そもそも何故改革を行うの?
先に江戸改革期の全体像を述べていきましょう。
江戸の改革期とは、8代徳川吉宗から始まる享保の改革、11代家斉時の松平定信が行った寛政の改革、12代家慶時の水野忠邦が行った天保の改革の3つでです。
彼らが改革を行わなければならなかった共通の理由はずばり、
幕府の財政難でした。
なぜ財政難になったのか、主な理由は二つです。
一つは、自然災害です。
8代吉宗よりも前の時代
- 4代家綱時に明暦の大火
- 5代綱吉時に大きな地震(元禄地震・宝永地震)、富士山の噴火
といった大きな自然災害が重なりました。
その復興に莫大な費用がかかります。
それからもう一つが建造物の建設費などの費用です。
5代綱吉期は有名で、多くの寺院建設や学問所を創設、それから犬小屋に数十億をかけました。
そういった背景から、6,7代将軍時に幕政を主に担った新井白石は
とにかく費用を節約しようとしました。
たとえば、銀流出を制限したり、朝鮮通信使の待遇を簡素化したりしました。
しかし、約7年で6,7代将軍は終わってしまうため、その効果も表れず、
8代将軍吉宗は自ら先頭を切って改革を行うのでした!
改革の全体像
では、実際にどのような改革が行われたのか、その全体像を見ていきましょう。
当時の幕府の主な収入は農作物(米)です。
自給自足生活を行っている農民から得られる年貢(本途物成)を幕府はもらい、それを家臣にお給料として支給します。
家臣たちはその米を食べるか、金に換えて市場で買い物をするのです。
商人たちは、この家臣(武士)=消費者と売買を行い利益を得ます。
ということは、この農民、武士、商人の関係は一方的であるのです!!
びっくりかもしれませんが、江戸期は幕府が農民に何か御礼を与えるとかはありません。
農民は吸われるばかり…
ただ、農民がどっかいってしまっては困るので、幕府はうまく調整します。
農業の生産力を上げさせたり、貧農がでないように工夫する、
こういった農業を重視した政策を重農主義(農業主義)といいます。
実は、享保の改革・寛政の改革は主にこの重農主義的な政策を行っていくのです
3大改革を簡潔にまとめると、
- 享保の改革:年貢増徴の成果はあり!…しかし、庶民には厳しすぎた!
- 寛政の改革:とにかく辛抱しろ!我慢しろ!
- 天保の改革:これもあれも空回りの連続!!
という感じです(笑)
では、簡潔に一つずつ見ていきましょう
享保の改革
吉宗が行った享保の改革の主な政策は、
- 一時的に武士からお金を巻き上げる!(上米の制)
- 農業を活発化させる
というのがPointです。
というか、この政策は絶対に成果がでます。
というのも上米の制というものは無理やり大名から米を巻き上げるものでしたので、成果がでて当たり前。
今でいえば政府に金がないので、都道府県からお金をもらうような感じです。
そりゃ幕府の米の残高はあがるに決まっています。
吉宗はそれではいつか限界が来ることがわかっていたので、主に二つのことを行います。
まずは、新田開発です。
農民の生産高の総量をあげようというもので、これは合理的ですね。
特に幕府は金がないので、町人に任せてしまう町人請負新田が増加しました。
さらに、米以外の作物を栽培するようにもなります。
有名なのは甘藷(さつまいも)ですね。
青木昆陽に任せて栽培を促進しました。
こうして飢饉対策も行い、幕府は潤っていきます。
しかし、吉宗は農民からは嫌われていたようで…
それは、吉宗の政策は農民にとって厳しいものだったからです。
吉宗期は定免法という収穫高を考慮しないで年貢率を固定してしまう方法に変えました。
従来は収穫高を見て年貢率を決める検見法でしたから、農民たちは大変です。
特に不作の時でも変わらず年貢率は固定なので、飢饉が起こることにもなります。
これだけならまだよかったのですが、、、
その年貢率は今までよりも多いもの(50%)になりました。(五公五民)
まとめると、
享保の改革は確かに成果はあったので評価は高いのですが、
農民にはとっても厳しいものだったのです!
寛政の改革
次に寛政の改革を見ていきましょう。
享保の改革後に飢饉が続き、農民たちは一揆や打ちこわしを行うようになりました。
そうした乱れた風潮に一喝を入れたのが寛政の改革です。
Pointは我慢させる改革です。
まず「囲米」です。
各藩の領内で1万石につき50石を貯蓄せよ、というものです。
でもこれ、できるならやっとるわ!という感じですよね。
ただ、飢饉対策のために貯蓄をさせるのです。
飢饉のために我慢しよう、ということですね。
それから倹約令。これで奢侈・ぜいたくが禁止になりました。
酒や歌舞伎も禁止になったとか・・・
当時は出版統制もなされ、お色気モノや政権を批判するものは出版禁止にされたりしました。
つまらないですね…(笑)
さらに町人たちにも我慢を強います。
七分積金(江戸の町費節約分の70%を積み立て)といって、貧しい町人が増えてきたから、金持ち町人で何とかしてねというものを出しました。
このようにとにかく貯蓄・積み立てといった個人に我慢をさせる(ぜいたくしないで節約しようね)ものが増えていったのが寛政の改革です。
しかし、ここで考えてほしいのは、そもそも生産・消費の総量が変わっていないことです。
こうした状態なのに、我慢を強いられる・・・
コロナ禍と一緒で我慢は長くは続きませんね。
しかも5年ほど続きます。
これでは国民が息苦しくなりますね。
ついに将軍家斉とのいざこざが原因で定信を退くことになったのです。
米ちなみに、定信は貧民が都市へ出かけていく(商人などになる)ことが多かったので旧里帰農令(農村へ帰れ令)も出しました。これは幕府の財源の米の生産者=農民が減るのを防ぐためです。
こういう感じで、これもダメ、あれもダメ、というのが寛政の改革。
厳しい統制は庶民の反発を受けるのでした。
天保の改革
最期に天保の改革を見ていきましょう。
天保の改革よりも前、寛政の改革の不満からか、元11代将軍の家斉はとにかくぜいたくをします。
大御所時代と呼ばれる時代です。
多くの女性と関係を持ち、53人もの子供を産んだことは有名ですが、
江戸城の大奥はかつてないほど豪華絢爛になりました。
子供が多いので出費も多くなりますし、
昼からお酒を飲んだり…まさに酒池肉林ですね(笑)
さて、この時代の後に引き締めをはかったのが12代将軍家慶時の老中水野忠邦でした。
ただ、彼の改革は空回りの連続。。
上知令という江戸・大坂周辺の地を直轄地化する法令を出しますが、
これは譜代大名・旗本に反対されて、失敗に終わります。
それから流通を独占していた株仲間を解散しますが、
これもうまくいかずすぐに再結成がなされます。
あとは、寛政の改革期とさほど変わらず、
出版統制・倹約令・人返し法(江戸への出稼ぎ禁止、帰郷強制)などを出します。
ただ、これといった成果は上げられず、むしろ藩の自立を促してしまい、
倒幕への流れを作ってしまうことになりました。
田沼意次は画期的?
以上3つの改革の主な全体像を見ていきました。
3つの改革は共通して主に農業を守ろう(あるいは推進しよう)という農業政策が入っています。
これは幕府の収入が米が主なものだからです。
ただ、田沼意次という人物はまるっきり異なる政策をしましたので、最後にご紹介します。
彼は、商人から税を取っちゃえばいいじゃん、また、商売を盛んにして国を豊かにしようという考えを編み出しました。
彼の政策は重商主義的政策といわれます。
例えば、商人たちに運上・冥加という売買でかかる税をかけます。
また、新井白石のように銀の輸出を制限するのではなく、
銀を取り戻せばいいじゃんということで、俵物といういりこ・干し鮑・ふかひれという高級食材をバンバン輸出します。
さらに、貨幣が全国で流通しやすくなるために南鐐二朱銀という計数貨幣をつくります。(※もともと銀は秤量貨幣で、金は計数貨幣、さらに大坂では銀が、江戸では金がよく使われてました。)
それから、日本にないなら外国から収入を増やせばいいという発想から、
蝦夷地開発をはじめます。(当時は外国の北海道のこと。最上徳内を派遣)
グローバルな発想ですね。
こうした当時としてはかなり画期的なことを行った人もいました。
しかし、田沼期は商人側と幕府側の結びつきが強くなった分、賄賂が横行してしまうことに…そういうのは江戸の庶民は許せないんですね。
せっかく貨幣繋勢が浸透して、国全体が資本主義になるところだったのに、
やっぱり寛政の改革以降も農業中心から脱却できなかったのでした・・・
まとめ
最後までありがとうございました。
江戸3大改革は基本的に農業主義です。
唯一田沼は重商主義的な改革を行いましたが、うまくいきませんでした。
全体像を把握しておくと、細かな点もみていきやすくなると思います
ほかにも多くの記事を投稿していますので、ぜひご覧ください
参考文献を載せておきますのでぜひご覧ください!
『早わかり江戸時代 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!』河合敦 (著)
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