享保の改革:気軽に読める解説!

歴史

こんにちは。よっとんです。

歴史・倫理哲学・心理学、それから本紹介のブログを書いています

今日は「享保の改革:わかりやすく解説!」という話です。

この記事を読めば、

  • 享保の改革の各政策の詳細
  • 享保の改革の成果は?

について理解できます。

とても分かりやすく書きましたので、ぜひ最後までご覧ください

享保の改革:背景

享保の改革の歴史的な背景を記しておきましょう。

ポイントは2つです。
(1)貨幣経済の浸透
(2)幕府・藩の財政窮乏

一つずつ簡単に解説します。

貨幣経済の浸透

江戸幕府は農民から年貢を納めてもらうことが主な収入源となっていました。

そして、家臣たちの給与は基本的に米で支払われました。

ただ、家臣たちはそれをすべて使うわけではなく、米を金に換金して物を買いました。

そうして、農民(米)→武士(米→金)→商人(金)という江戸時代の3身分の基本構造ができました。

ポイントはこの関係性は基本的には一方的であることです。

幕府の収入は米が主でしたから、農民たちにはとにかく米を納めてもらえればよかったのです。

逆に言えば、余計な作物とか商売とかを農民たちに期待することはなく、

貨幣経済が農民に浸透することを避けるような政策が、(もっと言ってしまえば、農民は農村だけで生活するように閉じ込めるような政策が)為されていました。

しかし、時が経つにつれて、農民たちに金が流入するようになります。

例えば、新しい農具ができた時です。

すべての農民がそれを所有できるわけではなく、基本的には問屋などから借りていました。

そのときに金が必要になります。

また、金肥というお金で買う肥料(干鰯など)が江戸時代から誕生します。

金肥の登場で貨幣を農民が使用するようになるとどうなるか…

農民の中にはうまく金をやりくりして土地所有する者も誕生します。

彼らを豪農といいました。

逆に貧農も誕生します。つまり、貧富の差が生まれてしまったのです。

貧農の中には都市に出稼ぎにいったり、中には商人として活動するものもあらわれました。

さて、これで困るのは幕府です。

収入源の農民たちが困窮したり、勝手に農村を離れるようになってしまいました。

享保の改革時には、貨幣経済の農村への浸透がさまざまな問題を引き起こしていたのです。

幕府財政の困窮

次に幕府の財政の困窮についてみていきましょう。

これに関しては先ほどの貨幣経済の普及のところでも話した、収入源である農民の貧農化もあげられますが、ほかにもっと大きな理由がありました。

一つは4代家綱時の明暦の大火です。

江戸3大火事と呼ばれるこの大火災は江戸の大半を焼き尽くすほど・・・

修復費に莫大な費用がかかりました。

それから、5代綱吉時の諸々の建造物の多額の費用です。

寺社・学問所・聖堂といったものもそうですが、何より犬小屋ですね。

綱吉は生類憐みの令を出し、犬を保護する政策を進めましたが、その際に大量の犬小屋を建設しました。

現代の金額に換算すると、70億円以上!

それは赤字になりますね。

さらに、綱吉の時代には自然災害が重なりました。

元禄地震・宝永地震といった地震から、富士山噴火まで起こりました。

これにより幕府は多額の復興費用を出すことになりました。

6,7代の際に政治担当であった新井白石が幕府の収入を改善しようとしますが、

二人の将軍はどちらとも3年ほどで亡くなってしまいましたので、

8代将軍の吉宗時までこのツケはまわってくることになったのです。

収入を増やそう:上米と定免法!

それでは吉宗の享保の改革の内容を見ていきましょう。

まず取り掛かったのは幕府の収入をあげるための政策でした。

吉宗は倹約令を出し、家臣たちに倹約を促すとともに、

大名に上米(あげまい)を命令します。

これは、1万石につき100石を上納するという政策です

意外とシンプルですね。

吉宗「大名のみんな、ごめん!幕府、今さあ、金ないから1万石につき100石納めてね」

というものです

大名たち「ええ、そりゃないすよ・・・」

吉宗「落ち着いて!代わりにさ、参勤交代の江戸にいる期間半減するからさ!」

大名たち「えっ!マジっすか?それはいいっすわ!あれ結構金かかりましたし、帰れないの本当に大変でしたから。それならOKです」

という会話があったかはわかりませんが(笑)

参勤交代の在府期間を半減する代わりに上米を実施しました。

成果は・・・

もちろん出ます。当たり前です。これで幕府の収入はあがりました。

ただ、この上米は一時的なものです。

問題は農村からの収入をどう増やすか、です。

吉宗は次に何をしたか?

それが増税です。

シンプルですね(笑)

今まで4割程度だった年貢率を5割に引き上げ、さらに定免法を採用しました。

これは不作・豊作にかかわらず、税率を固定するものです。

※役人が調査して「今年はこのくらい税率で納めよう」と決めるやり方を検見法といいます。(定免法といいつつも不作の時は検見法に戻すこともありました。)

これは成果は・・・ありますね。

そりゃそうですね。税率上げたし、固定だし。

その他に新田開発や農書の発行、それから農具の改良などを行い、

享保の改革は見事に石高の収入をあげました。

すばらしい!

となるのは幕府側の人間です。

農民たちからは反感を食らいます。

ふざけんな!

という人々が大勢で一揆をおこすこともありました(惣百姓一揆)

成果はありだけど、農民には厳しい・・・これが享保の改革でした。

飢饉対策

農村からの収入が上がりましたので、一応の成果を見せた享保の改革の序盤ですが

実は吉宗の在任中に飢饉に見舞われます。

享保の飢饉というものです。

原因は、いなごとウンカの発生です。

いなごはバッタです。

ウンカは小さいセミです(笑)

ただ、彼らを侮ってはいけません。

大量に飛んでくる彼らは植物をむさぼり喰います

そして、田畑を無きものにしてしまうのです。

恐ろしい。これで飢饉がおとずれました。

西日本の多くの藩の農民が飢えていく中、一つの藩はぴんぴんしていました

その藩こそ薩摩藩です。

吉宗は調査しました。なぜだ?なぜ薩摩は無事なのか?

調べてみると、彼らが米ではなくあるものを作物として育てていることがわかりました。

それが。「甘藷」(さつまいも)です。

薩摩芋・・・それは飢饉のときも絶やさず増え続ける作物でした。

これを知った吉宗は直ちに甘藷の専門家を呼びます。

有名なのが、青木昆陽ですね。

幕府はここから甘藷栽培を始めて、飢饉対策を行うのでした。

司法改革

享保の改革で画期的であったのはおそらく司法改革ではないでしょうか?

そんな司法改革のうちここでは二つご紹介します。

一つ目は相対済し令です。

これは、旗本・御家人と高利貸し間での訴訟(金公事といいます)はお互いに話し合って解決してね、(つまり。相対して済ましてね)というものです。

繰り返しになりますが、幕府の家臣の給与は基本的に米で、これを金に換えていろいろなものを買っていました。

その金に換えることを担当するのが「札差」です。

ただ、札差のところには金が集まるので、彼らは金貸し業もやっていました。

その金貸しのトラブルがとても多かったのです。

それを一つ一つ奉行所で裁いていたら時間もかかります。

だから、相対済まし令をだして、裁判の効率化を図ったのです。

次に二つ目が公事方御定書です。

裁判の基準を規定したものです。

実は、この書が出る以前は、奉行によって裁判の基準があいまいでした。

例えば、

武士A「今回だけは許してくださいよ!奉行様~~」

奉行B「え~、仕方ないな、今回だけだよ!」

武士A「はい!今回で絶対やめますんで!ありがとうございます」

という場所もあれば、

武士B「今回だけ許してくださいよ。奉行様~~」

奉行C「俺、そういうの認めない派なんで。じゃ、切腹ね」

武士B「えっ!切腹?ちょっと重くないですか!??」

奉行C「うるさいな。ここでは俺が絶対なの。はい切腹!」

という場所もあった(かもしれない)のです。

こんな感じで裁判の基準が曖昧だと困ることがたくさん生じるので、

裁判基準を明確化しました。

この公事方御定書は以前の風習を排した点で画期的だったといえるでしょう。

人材登用

吉宗は人材登用のシステムを変えました。

それが足高の制というものです。

これは、在任中に限り石高を足してあげるというものです。

どういうことかというと、

基本的に幕府の役職に就くときはそれなりの石高をもっている必要があります。

例えばA職に就く場合10000石、B職には20000石みたいな感じでした。

もともと多くの石高を持っている人ならいいですが、問題は優秀なのに石高が足りなくて職に就けない人たちです。

そこで吉宗は「石高を在任中だけ足してあげて、優秀な人材を登用できるようにしようよ」

と考えました。

そもそも吉宗は紀伊藩主だったので、新たな人材を登用するのは当たり前といえば当たり前なのですが、

何より人材を登用のシステムを新たに構築して、優秀な人材を採用したことでで有名です。

町人支配のプロ:大岡忠相

経済ならお任せ:神尾春央

百姓支配のプロ:田中丘隅

などです。

それから、吉宗はよく人の意見に耳を傾けることがあり、

荻生徂徠という学者の意見「政談」を聞き入れて、朱子学者の室鳩巣を侍講として雇いました。

こうした人材登用が吉宗を支えたのでした

ご意見BOX目安箱の設置

吉宗は目安箱というご意見BOXを設置しました。

その目安箱がきっかけで生まれたのが、庶民のための無料の総合病院=小石川養生所でした。

幕府の財政困窮で不況の波が庶民にまで押し寄せていた享保の改革期。

庶民の中には貧困ゆえに病気を患ってしまうものが多かったのですが、

病院に通うお金もありませんでした。

そんな状況を憂いていたのが医者であった小川笙船でした。

彼は貧しい人々を安く診ていたのですが、

すべてを救うことは到底かなわず、特に金がないがゆえに倒れていく人を多く見て嘆いていたそうです。

そこで彼は目安箱に無料の病院を設置するようにとの意見書を投稿しました。

そして、この意見は採用され、小石川養生所という無料の総合病院をつくることに成功。

医者を集めここで働かせ、また働き手のないものもここで雇いいれることもしました。

小川笙船は小石川養生所の改善点を何個もあげて、この病院をよりよいものへ変えていきました。

まとめ

以上が享保の改革の内容でした。

すべては網羅できていませんが、まずは簡単に全体像をつかんでいただければと思います。

最期までご覧いただき誠にありがとうございます。

参考文献を載せておきますのでぜひご覧ください。

『早わかり江戸時代 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!』河合敦 (著)

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