こんにちは、よっとんです。
歴史・倫理哲学・心理学、それから本紹介のブログを書いています。
今回はずばり「徳川家重は優しい将軍だった?(小便公方・あんぽんたん将軍の真相とは?)」について記していきます。
今回の記事を読めば、以下のことがわかります。
①徳川家重はなぜ暗愚な将軍と言われるのか?
②徳川家重は実は心の優しい将軍だった
ぜひ最後までご覧ください
あだ名は「あんぽんたん」と「小便公方」?
徳川家重は徳川吉宗の長男として1711年に誕生しました。(母は側室のお須磨の方)
吉宗が紀伊藩主のときです。
吉宗が将軍になると、家重は長男ですから次期将軍として期待され、英才教育を施されました。
吉宗の時代にも出てくる儒学者の室鳩巣に学問を教えてもらい、
また、武芸にもそれぞれの達人が指導にあたりました。
それほど期待されていた家重でしたが、将軍時代のあだ名は「あんぽんたん」や「小便公方」と散々なもので、実は家重は暗愚な将軍として有名なのです。
なぜそのようなあだ名がつけられてしまったのか?
その理由も踏まえて、以下3つに分けて解説します。
家重は女好き・酒好きな将軍だった?
「あんぽんたん」のあだ名からもわかる通り、家重は暗愚な将軍として有名です。
まず、女好き・酒好きでした。
朝会が終わると、大奥へGO、
大奥に長い時間居座り、お酒を呑んで一日を過ごしていました。
政治に関して口出しすることはほとんどなく、さらに、近臣の者たちも家重に会う機会はほとんどなかったようです。
だから、政治は吉宗時代のブレーンにお任せ状態でした。
だから、特に極端な変化もなくて、実は家重時代の世はとても安泰でした(笑)
約15年も将軍をやっているのに、高校日本史の教科書でも家重に関して覚えることはほぼ0です。
そんな将軍でしたので、将軍になる前は吉宗の次男田安宗武を後継に推す人が多かったようです。
吉宗は迷いましたが、伝統的な長男の継嗣に則りました。
吉宗は家重に将軍職を譲った後も、大御所として政権を担いましたので、
もしかしたら、初めからそういう意図があったのかもしれません。
しかし、譲位して数年で吉宗は脳卒中で死亡してしまいましたので、先ほど言ったような吉宗の周りの人物による政治体制が行われたと思われます。
「小便公方」とは?
家重が暗愚であったといわれる一つが、「小便公方」というあだ名からうかがえます。
家重はトイレに頻繁に行く将軍でした。頻尿だったのです。
有名な話は、徳川の菩提寺である上野寛永寺までに23か所ものトイレを設置したというものです。
この原因に関してはストレス、病説など諸説あります。
ただ、1958年の学術調査団が遺骨の調査をしたところ、あることが分かりました。
それは歯(実際には臼歯列)が一定方向に削り取られていたことです。
ここから何が言えるかというと、家重は歯ぎしりを多くする人物だったということ、
それから、家重は何かしらの精神障害または軽度の脳性麻痺を患っていた可能性がある、ということです。
軽度の脳性麻痺の場合、尿路系統のコントロールがうまくいかない人がいる、ということがあるらしく、もしかしたら家重はこのケースに該当するかもしれません。
何はともあれこの時代はそのような人は暗愚と称されてしまう時代。
もしかしたら、それも含めて家重は非常に強いストレスを抱えてしまっていたのかもしれません。
ただ、大奥に入り浸るだけの元気を持っていたのも事実です。
性活動には特に支障はなかったようで、次期将軍の家治をきちんと残しました。
言語障害をもっていた?
家重でもう一つ有名なものがあります。
それは家重が言語障害を持っていたというものです。
どれくらい聞き取れないものだったかというと、家重の言葉を近くで聞いていた老中たちの誰一人も彼の言葉を理解できなかったほどです。
ある外国人の日記には、家重は言葉を誰にも理解してもらえないので、話すことをやめて合図で指示を出すようになった、と書かれています。
そんな中、唯一家重の言葉を理解する者がいました。
側用人(将軍と老中の間を取り次ぐ役)の大岡忠光である。
というのも、忠光は家重の小姓(お世話係)として少年時代から家重の近くにいました。
家重もそんな忠光を気に入り、将軍になった折にはとても重用しています。
先ほども言ったように側用人にも選びました。
これは、ある意味老中と将軍との間の通訳的なポジションと化していたのかもしれません。
※最終的に、忠光は武蔵野国の岩槻の藩主となっています。
忠光が置かれていたことからも、言語障害を持っていたことは事実の可能性が高いと言われています。
当時としては、このような障害も暗愚の原因の一つとして評価されてしまったのかもしれません。
実はとても心優しき将軍だった?
家重の最後のパートにいきます。
「家重は実はとても心優しき将軍だった」、というものです。
これに関してはいくつかエピソードが残っています。
ある日、食事のさいに家重は「杉角」(容器)に一切手を触れなかったことがありました。
配膳の人々は不思議に思いましたが、「杉角」(容器)をよく調べてみると、
「杉角」(容器)が欠けているのを発見しました。
どうやら家重は、それを触って自分がけがした場合に、関係者が罰を受けることを心配したらしく、
「杉角」(容器)に触れなかったというのです。
とても思いのある人ですね。
その他、こんなエピソードも残っています。。
あるとき、家光は瓶にさしてある赤芽桜を見てとても気を良くし、
「江戸城の庭にも赤芽桜を移植したい」と言いました。
大岡忠光(唯一家重の言葉を理解する者)はお庭番の者に下見をさせたのですが、
そのお庭番の者は「この桜樹は老木なので、移植したらすぐに枯れてしまいます」と言いました。
それを聞いた家重は「それなら無理しなくていい。ひこばえを植えて培養しよう」とあきらめたといいます。
これだけでもきちんと理性のある人だと思うのですが、さらに話は続きます。
家重が植物を愛でることが好きだという噂を聞いた諸大名は家重に盆花を献上するようになりました。
もちろん、家重は大いに喜びました。
しかし、ある時、蒔絵(金粉を蒔いた絵)の器に生けて進上した者がいることを聞くと、家重はとたんに機嫌を悪くしました。
これは、家重は植物を大事にしていたこと、器や奢侈を楽しんでいたのではないことが理由でした。
このように植物をとても大事にした家重は心の優しい人だったと思われます。
そんな家重の最後は脳性麻痺(尿路障害)と言われていますが、
彼は実は死ぬ1年前に将軍職を家治に譲っています。
それは、なぜか。
理由は定かではありませんが、実は譲位の年には無二の寵臣の大岡忠光が没してしまったのです。
もちろん話が通じなくなることを恐れたとも考えられますが、
とても忠光のことを思っていたのかもしれません。
そんな優しい一面もあった暗愚な将軍が徳川家重でした。
まとめ
9代将軍徳川家重はその性格や特徴から将軍の中で一番逸話の残らぬ人物です。
ただただ、女と酒に入り浸っていた人物だったのか、
あるいは、植物を愛でて、人にやさしくできる人物だったのか、
その真相は分かりかねますが、安寧の世が築かれていたのもまた事実です。
この記事で少しでも家重について興味をもってくれたらうれしく思います。
最後までご覧いただき誠にありがとうございます。
家重の前の吉宗の逸話はたくさんあります。
そちらの記事もありますのでぜひご覧ください。
参考文献も載せておきます!
15代将軍について細かく、さらに面白い話が満載です。
ぜひご覧ください!
コメント