皆さんは「荘園(しょうえん)」という言葉を聞いたことがありますか?
古代~中世の日本の歴史を語る上で欠かせないのが、この荘園と、それを取り巻く「荘園公領制」という仕組みです。
この記事では、難解に思える荘園公領制が、どのようにして生まれ、日本の土地支配のあり方をどのように変えていったのか、わかりやすく解説していきます。
前回の記事は以下になりますので、そちらも参照ください
荘園:寄進地系荘園のしくみ
荘園公領制の基礎となるのが、平安時代中期から後期にかけて広がった
「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」です。
この荘園は、地方の有力者と中央の権力者が手を組んで作られました。
地方の有力者「開発領主」の悩み
当時の地方では、新田開発に成功した有力な農民や豪族が、大きな土地を所有していました。
・大名田堵…耕作を担った田堵のうち大規模な経営を行っていた者
・開発領主…田堵経験を経た農民などが、みずから未開発の土地を開墾し、その土地の所有権を得た者
しかし、彼らは大きな悩みを抱えていました。
- 国司の厳しい徴税攻勢:国司は、朝廷に納める税(官物・臨時雑役など)を徴収するため、開発領主たちに厳しい税を取り立てました。
- 領主間の抗争:土地をめぐる争いが絶えず、せっかく手に入れた土地や財産を失うリスクがありました。
中央の貴族や寺社との「契約」
そこで大名田堵は、これらの問題を解決するため、
中央の有力な貴族や寺社(これを権門勢家(けんもんせいか)と呼びます)に自分の土地を寄付する、という方法をとりました。
これが「寄進」です。
名目上は土地を寄付するのですが、実質的には土地の所有権と引き換えに、
彼らの「保護」を求めたのです。
荘園領主と荘官の誕生
土地を寄進された貴族や寺社は「荘園領主(領家・本家)」となり、
不輸(ふゆ)の権(税金免除の特権)や不入(ふにゅう)の権(国司の立ち入りを拒否する特権)といった特別な権利を獲得しました。
一方、土地を寄進した元の大名田堵は、荘官(しょうかん)という役職に就き、実質的な土地の支配を続けました。
彼らは、荘園領主に対し、年貢や公事(くじ)などの税を納める代わりに、土地を国司の支配から守ってもらいました。
今までとやることは変わらないが、保護する権利をもらえるので、寄進する者が多くなります。
このようにして、地方の土地は中央の権力と結びつき、国司の支配が及ばない特別な土地である「荘園」が形成されていったのです。
公領〔国衙領〕の形成と荘園公領制の確立
荘園の拡大が進む一方で、国司の支配下にある土地(公領〔国衙領〕)も大きく変化しました。
公領の再編
国司は、荘園の拡大に対抗するため、残された公領の支配を強化しました。
国司は公領を郡・郷・保(ぐん・ごう・ほ)といった新しい単位に再編し、国司に協力的な在地の有力者を郡司・郷司・保司に任命しました。
彼らは実質的にその地域の土地を支配する代わりに、国司に一定の税を納めました。
荘園公領制の確立
平安時代後期になると、国司の支配する公領と、国司の支配が及ばない荘園が、「荘・郡・郷・保」という単位で一国の中に混在するようになります。
このように、全国の土地が荘園と公領に二分され、それぞれが並立する形で土地支配が成立した体制を
「荘園公領制」と呼びます。
この体制は、土地の所有権が重層的になり、国の土地支配が複雑化したことを意味します。
この後、鎌倉幕府が成立すると、この荘園公領制はさらに複雑な形で展開していくことになります。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
荘園公領制は、平安時代の土地支配を理解する上で非常に重要なキーワードです。
この記事が、皆さんの歴史学習の一助となれば幸いです。
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