みなさんは、平安時代の政治がどのように行われていたかご存知でしょうか?
天皇が国を治めていた、摂関政治で藤原氏が権力を握っていた……といったイメージはあっても、
実際にどのような場で物事が決められていたのかは、あまり知られていません。
実は、当時の政治を動かしていた重要な会議がありました。
それが「陣の定(じんのさだめ)」です。
今回は、あまり知られていないこの「陣の定」について、わかりやすく解説していきます。
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そもそも「太政官」じゃダメだったの?
律令(りつりょう)という法律があった時代、
国の政治は「太政官(だいじょうかん)」という最高の行政機関によって行われるはずでした。
太政官は今で言えば内閣にあたります。
組織には、左大臣・右大臣・大納言・少納言などの「公卿」と呼ばれる人が就いて、政務を担当していました。
しかし、平安時代になると、この律令の仕組みがだんだん現実と合わなくなってきます。
- 荘園(しょうえん)が増えて、土地制度が複雑になった
- 地方の政治がうまく機能しなくなった
- 太政官の役人たちが、昔のルール通りに動けなくなった
- 令外官で摂関などの新しい組織がでてきた
こうして、太政官という「組織」は存在しても、そこで物事をスムーズに決められる「会議の場」がなくなってしまったのです。
臨機応変に議論する「陣の定」の誕生
太政官が機能不全に陥る中で、公卿(くぎょう)と呼ばれる高官たちが、国の大事なことを話し合う新しい会議が必要になりました。
そこで生まれたのが「陣の定」です。
これは、天皇の住まいである内裏の近衛府の陣座(じんのざ)で行われたことから、
この名前で呼ばれるようになりました。
大臣や大納言といった公卿たちが集まって行われました。
ここで議論されたのは、外交、国の予算、人事など、国の方向性を決める重要なことばかり。
いわば、平安時代の「国会」や「閣議」のような役割を果たしていたのです。
2つの特徴から見る「陣の定」のすごい点
この会議には、注目すべき2つの特徴があります。
- 身分の低い人から意見を述べる 通常、身分が高い人から発言するのが当たり前の時代でしたが、陣の定ではあえて身分の低い公卿から順に発言するというルールがありました。これは、身分に遠慮することなく、誰もが自由に意見を言えるようにするための工夫でした。
- 実質的な政策決定の場だった 陣の定で話し合われた内容は、「定文(さだめぶみ)」という文書にまとめられ、最終的に天皇や摂関(摂政・関白)に報告されました。多くの場合、この定文に書かれた内容がそのまま正式な決定とされていたのです。
つまり、太政官が「形だけの組織」となっていく中で、
陣の定は「実際に政治を動かすための場所」として、大きな力を持つようになりました。
まとめ
平安時代の政治は、太政官という古い制度にとらわれず、
新しい会議の場を設けることで、臨機応変に運営されていたのです。
教科書にはあまり載っていないかもしれませんが、こうした歴史の裏側を知ると、
また違った面白さを感じられるのではないでしょうか。
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