こんにちは。よっとんです。
哲学倫理・歴史・心理、それから本紹介のブログを書いています。
本日は「キリスト教と仏教の死んだあとどうなるのか?」について簡単にまとめていきます。
この記事を読めば、
キリスト教・仏教それぞれの
- 死んだあとどうなるのか?
- そのためにどう生きるのか?
が分かるようになっていますので、ぜひ最後までご覧ください!
キリスト教
まずはキリスト教から見ていきましょう。
キリスト教のキーワードはずばり「終末論」です。
終末とは、「世界の終わり」のことですね。
キリスト教では、神が世界を造ったということは、神が世界を終わらせる日も来る、と考えています。
この考えは、キリスト教と同系統に属す、ユダヤ教もイスラム教にもあります。
では、世界の終わりはいつ来るのか?
それは、不明です。神のみぞ知る・・・ということです。
明日かもしれませんし、明後日かもしれません。
とにかく世界の終わりはいつの日かやってきます。
では、その終わりの日に我々はどうなるのか?
キーワードは「最後の審判」です。
最後の審判とは、「天国か地獄に行くかを審判するもの」です。
ただ、「天国・地獄」とは後世の考え方なので、
聖書通りに解釈するならば、「神の国」にいけるかどうかを審判してもらうものとなります。
終末の日、すでに死んでいた人は復活します。
生きている人も一度倒れ、再度復活します。
※だから、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は土葬し、終末まで身体を残しておくのです。
そして、審判がなされます。
神の国は愛で満ち溢れている国ですので、行ければ平和でハッピーな暮らしが永遠にかなうでしょう。
そこへいけなければ、世界とともに消滅してしまいます。悲しいですね。
では、誰が審判を下すのか?
キリスト教では、神の子イエスとされています(「イエスの再臨」)
ここがユダヤ教・イスラム教と異なるところです。
ユダヤ教は救世主がやってきて、敬虔なユダヤの民のみを救います(救世主待望思想)。
イスラム教は神(アッラー)が直々にやってきて最後の審判を下します。
最後の審判という点は共通していますが、審判を下す主体が異なるようです。
『コーラン』に終末の様子が載っています。
「嚠喨と喇叭が鳴り渡れば、天にあるものも地にあるものも、愕然として気を失う。アッラーの特別の思召による者以外は誰も彼も。次いでもう一度吹き鳴らされると、皆起き上がってあたりを見廻す。大地は主の御光に晈々と照り輝き、帳簿が持ち出され、すべての預言者、あらゆる証人が入場して来て、公正な裁きが始まる。誰も不当な扱いを受けることはない。誰もが自分のしただけの報いをきちんと頂戴する。誰が何をして来たか。(アッラーが)一番よくご存知。
『コーラン』井筒俊彦訳 岩波文庫
罰当たりどもは群をなしてジャハンナム(=ゲヘナ、地獄のこと)の方へと駆り立てられて行く。いよいよ彼らが到着すると、扉がさっと開いて門番が、「これ、汝らのところには、同じ血を分けた人間が使徒として遣わされて来て、神様のお徴(=啓示)を誦んで聞かせ、今日のこの日の対面を警告しておったはずではないか」と言う。「はい、その通りでございます。」しかし(時すでにおそく)無信仰ゆえに、天罰の約束は真実となってしまう。
「さあ、ジャハンナムの門、さっさとはいれ。はいって永遠に住むがよい」と(門番が)言う。いやはや散々威張りちらしていた者どものこれが哀れな末路というものか。
ところで主を懼れていた連中は、これまた群なして楽園の方へと駆り立てられて行く。いよいよそこに到着すると、扉がさっと開いて門番が、「ようこそおいで。お前がたは見上げたものじゃ。さ遠慮なく中にはいって、常とわまでも住まうがよい。」と言う」
すごくリアルな描写ですね。
帳簿というのは生きている間に、どれだけ善いこと・悪いことをしてきたかを記録されたものです。
それによって判断が下される・・・ということは善行をしなくてはなりませんね(笑)
この善行はもちろん主観的なものではありませんよ。
各宗教ごとにやることが違います。
例えば、キリスト教は黄金律に基づいた隣人愛など、
イスラム教は五行などです。
生きている間の評価がそのまま死後に直結するという考え方があるのがキリスト教です。
仏教の死生観
さて、続いて仏教についてみていきましょう。
仏教では、唯一神は想定されていませんので、終末論はありません。
では、どうなるのか?
キーワードは「輪廻転生」です。
簡単にいえば、生まれ変わることです。
「えっ?生まれ変われるなら仏教最高じゃん!」と思われたかもしれませんが、そうではありません。
その説明をするために、まずは、「六道輪廻」を説明しましょう。
六道輪廻とは仏教で想定されている、生まれ変わりの6つの世界観です。
上から、順に簡単に説明すると
- 天道 … 神的存在(毘沙門天、帝釈天など)のいる世界。
- 人間道… 人間の生きる世界、四苦八苦に苦しむ
- 修羅道… 阿修羅が住み、終始戦い争うために苦しみと怒りが絶えない世界
- 畜生道… 動物や昆虫などの畜生の世界。
- 餓鬼道… 常に飢えている餓鬼の世界。
- 地獄道… ずっと痛みを感じる世界。
となります。
※元々は修羅道がなくて、「五道」と言われていました。
※地獄は八層からできています。特に最悪なのは「無間地獄」です。
私たちの身体は死にますが、魂は六道輪廻をずっとクルクルクルクル・・・と生まれ変わり続けています。(だから仏教では、身体を火葬してもOKなのですね。)
今は人間道にいますが、前世は動物だったかもしれませんし、地獄にいたかもしれません。
そして、善行を積むことで、私たちはより上位の世界へ転生することができる、
これが仏教の六道輪廻の考え方です。
ただ、注意してほしいのが、
最上位の天道=GOALではないのです。
天の存在になっても、寿命があります。
だから、再度輪廻するのです。
それでも皆さんは「生まれ変わる=善いこと」と考えると思いますが、
実は仏教では、「生まれ変わる(輪廻転生)=苦しみ」
と考えます。
というより、そもそも「生=苦」なのです。
なぜなら、「生きる=老いる、病になる、死ぬ存在」だからです。
私たちは生まれてしまったから、いつかは死ななくてはなりません
それは避けられないのです。
生まれてなければ、その苦しみを味わうことはなかったのに・・・
ということで、仏教でのGOALは、
「輪廻転生の苦しみから抜け出す」こととなります。
その方法については以下の記事をご覧ください。
簡単に説明すると、
仏教では、自分自身で苦しみを取り除き、輪廻転生の苦を味わうことから脱することを目指します。
ただ、やることは、善行を積むことではありません。
「善行を積むこと」は「善いことをしたい」という煩悩に基づくものです。
仏教はこの煩悩を消すことが究極目標です。
煩悩をなくし、苦しいと思う心を消していく、涅槃の境地に至ると、
輪廻転生の苦しみからも脱することになります。
これが仏教の死生観となります。
まとめ
キリスト教と仏教の死生観について、簡潔にまとめると、
キリスト教は終末がきたときに、人類は復活してイエスの最後の審判を受ける、
仏教は輪廻転生する、ただ目標は輪廻から脱すること、
ということになります。
二つの埋葬方法もそれぞれ合理的な意味があって「土葬」と「火葬」になっているのです。
いかがだったでしょうか?
ここまでご覧いただき誠にありがとうございます。
以下参考文献を載せておきますので、ぜひご覧ください。
『ビジネスパーソンのための教養としての世界三大宗教』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
中村 圭志 (著)
『本当の仏教を学ぶ一日講座 ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』 (NHK出版新書)
佐々木閑 (著)
『コーラン』 (岩波文庫) 井筒 俊彦 (著)
コメント