日本ナショナリズム史(明治以降を簡潔にまとめてみた)

哲学・倫理学

こんにちは。よっとんです。

心理・歴史・哲学倫理についてのブログを書いています。

本日は「日本のナショナリズム史明治期」について書いていきたいと思います。

自由民権運動の終結とともに、国粋主義、国民主義、平民主義なる様々な思想が展開されます。

それらの思想を簡潔にまとめていきます。

そもそもナショナリズムって何ですか?

ナショナリズムはとても意味が多様です。

日本訳としては、国民主義・国家主義・民族主義・国益主義・国粋主義と色々訳されます。

ただ、根底にあるのは「その国(あるいは民族)が大好き」という心です。

例えば、皆さんは北京オリンピックを見ているとき誰を応援しますでしょうか?

ほとんどの日本人は「日本の選手」を応援するのではないでしょうか?

それは何故か?

「日本人だから」ですね

全く話したことも、直接見たこともない人だけど、「日本人だから」という理由で応援しますよね?

この考え方もナショナリズムです。

ナショナリズムはその国民・国家・民族が大好きという精神が根底にあります。

ただ、それは行き過ぎると排外主義的になることもあります。

例えば、羽生結弦選手を見ている時に、

「外国の選手失敗しろ!」とか思ってしまう・・・

そういう風に、「日本人が好きすぎる、応援したい!」と思うばかりに、

「外国人は失敗しろ!」、もっと言ってしまえば「外国人を排せ」という思想に結びつきやすいのも

ナショナリズムの特徴です。

つまり、ナショナリズムは「日本人は好き、だから他の国は嫌い!」という思想でもあるということです。

「日本人」を「日本という国」にした場合、ナショナリズムは国家主義と訳されます。

「日本国大好き」くらいなら悪いことではありません。

ただ、これが行き過ぎて、「外国は嫌い」と思ってしまったり(排外主義)

「国家のためなら」という理由で個人の価値が貶められることもあります。(国家主義)


文脈次第でナショナリズムは様々な意味になるものですが、

その根底には「その国が大好き」という考えがあるということをわかっていただけましたでしょうか?

では、このあと、日本ナショナリズムはいつからみられるのか?について語るのですが、

その前に日本ナショナリズムが生まれる歴史的背景をご説明します!

明治期の思想史

ナショナリズムとは「〇〇国(民)大好き!」という思想が根底にあるとお話しました。

だから、日本ナショナリズムとは、「日本大好き!」ということになりますが、

そのナショナリズムの萌芽はいつなのか・・・

結論を言ってしまうと、明治期ということになります。

江戸時代よりも前は、民衆に「日本人」としての自覚はあまりありませんでした。

江戸期は藩が自分にとっての住まいであり、もっと言ってしまえばアイデンティティのようなものでしたので、

一人一人は「自分は〇〇藩の人!」という意識はありましたが、

「日本国」を意識している人は少なかったといわれています。

では明治期はどうなのか、その背景からお話しします。

明治時代になった日本はそれまでの身分制度を打ちこわし、四民平等が原則になります。

さらに西洋式の技術を取り入れて、文明開化を行いました。

こうして、制度・見た目ともに西洋化(文明化)を為し得ましたが、

国民の内面は未だ江戸期のまま・・・なかなか付いていくことができませんでした。

そうした国民に「自由・平等・権利とはこういうものだ!」と説いた思想を啓蒙思想といいます。

特に1870年代は啓蒙思想家が活躍しました

この頃は、啓蒙思想と国の政策はセットで執り行われることが多かったのです。

こうして自由を知った国民たちはあることに気づきます。

「あれ、自分たちには自由がないぞ?政治に参加できていないじゃないか!」

そうなんです。

この頃の政治は藩閥政治と言いまして、旧薩摩・長州藩・土佐藩・肥前藩中心の政治体制で、

国民全員が政治に関与できる場がありませんでした。

自分たちに話し合いの場がないことに不満を持った国民たちが自由を求めて運動をします。

それが「自由民権運動」ですね。

ただ、この自由民権運動も失敗に終わります。

全国民に参政権が与えられるのは第二次世界大戦後の話ですし

国民主権が明記されるのは日本国憲法からです。

あまり自覚はないかもしれませんが、

歴史的にみれば日本という国は政府中心の独裁的国家でもあったのです。

政府はどうやって日本をまとめたのか・・・?どうやって従順な日本国民をつくりあげたのか・・・?

それを知るキーワードが「ナショナリズム」です。

結論をいえば国家主義を扇動することによって日本国民は

「お国の為なら!」という精神を植え付けられたのです。

では、まず明治期最初のナショナリズムの動きを簡単に見ていきましょう。

明治期のナショナリズム

技術開発がだいぶ進み、さらに民権運動が収束した後の日本は、

「今後日本をどのような国にするのか」を改めて決める必要に迫られました。

この際に大きな思想の流れを提示したグループがありました。

一つが、徳富蘇峰が創った民友社、もう一つが志賀(しが)重昴(しげたか)三宅(みやけ)(せつ)(れい)が中心の政教社です。

彼らが使ったメディアは新聞・雑誌です(当時はこれが主流)

前者が打ち立てたのは、欧化主義(平民的欧化主義・平民主義)です。

簡単にいえば、西洋化することによって日本を強くするというものです。

後者は、国粋主義(国粋保存主義)を提示しました。

難しい言葉ですが、これは先ほど説明したナショナリズムに則った思想と考えれば簡単です。

西欧化ではなく、日本中心でいこう!ということですね。

どちらの団体も、1880年代の政府主導の欧化政策を批判した形で生まれました。

当時の政府の喫緊の課題は不平等条約の修正でしたが、

そのために、日本の西洋化を図ることをしたのです。

代表的なのは鹿鳴館という西洋式の建物をつくったことです。

ここで、洋食をふるまったり、西洋式のダンスを披露することをしていました。

これに国民たちは怒ります。

「政府は西洋人に迎合している!西洋化は政治家だけの風習になり、庶民は置いてきぼりを食らっている!」

こうして政府の欧化政策はいつしか「貴族的欧化主義」と言われるようになりました。


徳富蘇峰は(貴族ではなく)平民からの(※特に若者の)西欧化が必要だと説きました。

平民からの文明化を進めることで生産的な国をつくることができると考えたのです。

他方、三宅・志賀は西欧化ではなく、日本の精神を貫く方針をとるのです。

正確には、西欧の技術を取り入れてもいいが、それを日本バージョンに咀嚼していくべきという考えを持っていました。

主体は日本である点がポイントになります。

逆にいえば、日本人としての誇りを強くもたないと、

西欧に心(内面)も身体(領土)も飲み込まれるという危機感もあったのだと思われます。

国民を統一し、外国には迎合せず、対等な姿勢で接する、これが基本方針となりました。

ただ、国粋主義は国民に排外的な空気を醸成したことも間違いありません

時に、日本こそがアジアの先頭に立ち、非西洋型の新たな近代化路線を打ち出すことも・・・。

そして、国粋主義の別動隊的役割を担った陸羯南くがかつなんの日本主義も日本人に多大な影響を与えました。


そして、先ほど平民的欧化主義を説いていた徳富蘇峰も

三国干渉(日本の遼東半島返還をフランス・ドイツ・ロシアに要求されたもの、結果日本は返還した)後に「国家主義」へ転向しています。

その後の蘇峰は一貫して「帝国主義」(侵略主義…植民地(領土)を増やしていこうという考え)の路線をとることになったのです。

ナショナリズムと教育

ナショナリズムの流れにさらに拍車をかけたのは、教育でした。

日本は従来日本の主流の宗教だった仏教を神道から切り離し(神仏分離)

国家神道を推し進めます。

これが、天皇崇拝思想へとつながります。

この国家神道の教えは教育機関で子どもたちに伝えられました。

重要な役割を担ったのが「教育勅語」です。

ここでは、天皇(国家)が神聖化され、天皇中心の国家つくりを促すものとなっていました。

ちなみに、集会の際にはこの教育勅語の奉読式がありました。

その奉読式では、必ず前に張ってある教育勅語にお辞儀をしないといけませんが、

キリスト者の内村鑑三先生が敬礼をしませんでした。

これが、不敬事件というものです。この影響は国家主義者のキリスト者弾圧へ繋がっていくのです。

※内村鑑三については詳しくは下のリンクをご覧ください。

大正・昭和期のナショナリズム

明治期に芽生えたナショナリズムは日清・日露戦争でさらに高まることになります。

日本は大国の二か国に勝利したという事実は日本人に強い誇りを抱かせました。

「日本は強い、素晴らしい国だ」

その勢いは止まりませんでした。

特に、北一輝の『日本改造法案大綱』で植民地獲得こそ国の発展に不可欠と説かれたことは、

青年たちに多くの勇気を与えました。

「なぜ、私たちはこんなにも貧しいのか。それは、今の政府が弱腰だからだ。もっと外国を攻めて領土を獲得すればいいじゃないか」

そういう風に思った若者たちがいました。

彼らの中には政治家を暗殺する事件を起こすものもいました(二・二六事件)

こうして、日本の軍国主義・侵略主義は加速します。

さらに、日本のナショナリズムは異様さを増しました。

お国のためなら」というワードで個人の命が蔑ろにされることも・・・

特攻隊などは皆さんも知っているかと思います。

そして、極端な国家主義をもつ日本は第二次世界大戦で敗戦したのでした。

日本ナショナリズムを批判した者

さて、戦後になって日本の国家主義を批判した人物たちがいました。

一人が丸山真男です。

彼は日本の思想家としてとても有名な人物です。

彼は、日本には無責任の体系がはびこっていたと主張しました。

「お国にのために」

ということを信じて戦争を繰り広げた日本人でしたが、

そもそも日本という「お国」は虚構にしかすぎません。

戦後に具体的に「お国」が責任をとってくれればいいですが、そうではないですよね?

皆が信じていた「お国」というものは本来は存在する物ではないのです。

日本人は、「国のためだから」という理由で戦争をやっていたかもしれませんが、

それは裏を返せば、責任を自分に求めるのを逃れているともいえます。

丸山真男はこうした風潮を指摘しました。

もう一人吉本隆明も同様のことを言っています。

彼は『共同幻想論』の中で、戦争中に信じていたものは「共同幻想」に過ぎなかったと言っています。

フィクションということですね。

ナショナリズムの欠点はシンプルで、

「見えないものを信じることには限界がある」ということです。

丸山真男も吉本隆明もその点を指摘しました。

ただ、彼らは注意した生き方をすればいいとも言っています。

丸山真男は「「である」ことと「する」こと」の中で、

これから「私は○○である」と受動的に生きるのではなく、能動的に「私は○○する」という風にして生きることが大事だと言っています。

主体的に生きることで、ナショナリズムが偏ってしまったときの抑止力となるのです。

また、吉本隆明は、常に自分の信じているものが「共同幻想」であるかもしれない、

と疑う姿勢を持つことが大事だと言っています。

日本・家族・学校・会社など、すべては人が作りあげた虚構的な結びつきにしかすぎません。

そのことを知れば、「会社のために頑張って働こう!」という発想から、過労死を迎えるという状況にならないで済むかもしれません。

二人の人物をぜひ参考にしてナショナリズムとの向き合い方を考えてみてください。

まとめ

以上が日本のナショナリズムのまとめになります。

ナショナリズムとは国家・国民を愛することが根底にありますが、

時にそれは排外主義・帝国主義と結びついてしまいます。

日本人を応援する、日本人の良さをアピールするということ自体は決して悪いことではありません。

過去の日本の過ちを振り返って、今後ナショナリズムが極端な方向にいかないようにしていきましょう。

ここまでご覧いただきありがとうございました

参考文献を載せておきます。ぜひご覧ください!

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