こんにちは。よっとんです。
歴史・哲学倫理・心理、それから本紹介のブログを書いています。
本日は、山鹿素行について分かりやすく解説します。
「山鹿素行って誰?」と思われる方も多いかもしれません。
しかし、彼の思想は後の時代の
- 大石倉之助(忠臣蔵の有名人)
- 吉田松陰(父から受け継いだ松下村塾で、高杉晋作・木戸孝允らを育てる)
- 乃木希典(日露戦争の立役者、陸軍軍人。明治天皇の崩御の際に殉死したことでも有名。)
など、名のある人物たちに影響を与えました。
そんな彼の思想のどこが魅力的だったのか、見ていきたいと思います!!
古学とは?
山鹿素行の生涯を簡単に紹介します。
時は、江戸前期。1622年会津藩の浪人の子として誕生しました。
父についていき江戸へ、9歳で朱子学で有名な林羅山に入門。
14歳のとき、小幡景憲と北条氏長に兵学を学び、また和学(『源氏物語』や『万葉集』)も修めました。
じゃあ、彼は何者なのかと聞かれれば、「兵学者」が合っていると思います。
兵学はいわゆる軍事的な知識、それから兵器の操作などを学びます。
もちろん実地訓練や技術の習得といった、身体的な面も兼ねたものでした。
そんな、幕府への仕官はかなわなかったが、31歳から8年間は赤穂藩の浅野長直に仕えていました。
それなりに満足のいく生活をしていた素行でしたが、
41歳のとき、長年学んできた朱子学の教えに疑問を持ちはじめます。
「朱子学って理論ばかりで、形式的すぎない?」という感じです。
朱子学は「人間はこの世界の理(秩序・ルール)に沿って生きるべき」と説きます。
具体的にいうと、居敬(感情・欲を抑制した状態でいること、特に上下関係を重視する)と窮理(理とは何かを探究すること、勉学を重視する)を重んじる学問でした。
詳しくは、以下の記事を参考ください。
特に江戸時代の日本では「上下関係を重んじる」ことを形式的に教えていました。
これは、武士の世を保つためです。
ただ、山鹿素行はその朱子学の形式主義的なありようにメスをいれます。
寛文の初めになって私はこれまで漢・唐・宋・明の儒者の書いたものを見ていたため、よくわからなかったのではないだろうかと気がつきまして、直接、周公・孔子の書を読み、それを手本として学問のしかた(筋)を正そうと思い、それから後は……聖人の書ばかりを日夜読む考えた結果、はじめて聖学の道筋が明らかに得心されましたので、これで聖学の法則〈のり〉をさだめました。
『日本の名著12』「配所残筆」(田原嗣郎 訳)中央公論社
朱子学のもとの儒学は、仁(思いやり)・礼(思いやりが外に発揮されたもの)・孝(親へ敬い)・悌(年長者への敬い)など、具体的な実践が伴ったものでした。
だから、彼は儒学こそ聖学であるとしました。
こうして山鹿素行が創始した学派は古学とよばれます。
この後、伊藤仁斎が古義学、荻生徂徠が古文辞学をはじめますが、
それと傾向は似ていますが、別ものなので注意しましょう。
※ちなみに、古学・古義学・古文辞学を合わせて古学(古学派)ともいいます。
仁斎と徂徠については、以下をご覧下さい。
さて、その後素行はどうなったか。
先ほどの朱子学への疑問を自著である『聖教要録』にまとめました。
しかし、厳格な朱子学者の山崎闇斎を師としていた保科正之の怒りを買い、
表向きは流罪の処分、実際には浅野家に「預かり」=蟄居処分となりました。
補足ですが、蟄居中に彼は日本の歴史書として名高い『中朝事実』を書いています。
その後、54歳のときに許されて江戸に戻り、64歳でその人生に幕を閉じました。
士道とは?
山鹿素行の本題は「これからの武士のあり方」にありました。
江戸時代は戦国時代以前と異なり、戦闘があまりありません。
治安維持はあるものの、大規模な反乱はそれほどありませんでした。
農民は農民の耕すという仕事があります。
商人は売買するという仕事があります。
職人は何かを作るという仕事があります。
その三つの身分=三民の存在価値は明らかであるが、武士はもはや遊び人(遊民)ではないか?
という声が当時上がっていたのも事実です。
それらの声に山鹿素行は答えてみせます。
およそ士の職というものは、主人を得て奉公の忠をつくし、同僚に交わって信を厚くし、独りをつつしんで義を専らとするにある。そして、どうしても自分の身から離れないものとして、父子・兄弟・夫婦の間の交わりがある。これもまた、すべての人が持たなければならない人間関係であるけれども、農・工・商は忙しくて、いつもその道をつくすというわけにはいかない。士はこれらの業をさしおいて、専らこの道につとめ、農・工・商の三民が、人のなすべきことを少しでも乱すならば、それをすみやかに罰し、それによって天の道が正しく行われる備えをなすものである。だから、士には文武の徳知がなければならない。
「山鹿語録」『日本の名著12』(田原嗣郎 訳)中央公論社
日々の職業に従事している三民に対して、「人倫」の手本を示す、これがこれからの武士の職だということになります。
つまり、これからの時代の武士は徳や教養を身に付けていくべきだということです。
いつまでも「戦闘民族」じゃあかん!勉強しろ!!と主張しているようでもありますね。
ここで注意してほしいのは、山鹿素行は、徳や教養を身に付けたから武士は上位者なのだと言っているわけではなく、
武士だから徳や教養を身に付けなくてはならないと言っていることです。
武士の価値を見事に儒教の理論(修己治人)で説き直していますね。
山鹿素行はこの武士の道を従来の武士道とは違う「士道」であると言い切っています。
現代の私たちは、教養ある武士を何人も知っていますので、
武士=頭が良いということにあまり違和感がないかもしれませんが、
そもそも武士は教養を身に付けるというあり方は主流ではありませんでした。
従来のいわゆる武士道というものは、名をあげることを重んじ、武士としての恥を避け、
それから、主君への徹底した忠義を重んじていました。
読書や勉学(特に和歌)は基本的に貴族がやるものでした。
これは、中国でも同様です。士大夫は読書人で官僚ですが、決して戦う身分ではありません。
勉学と戦闘は分けて考えます。
ただ、日本はその戦闘者が天下を統一しました。
天下を統一するような主君は基本的に徳を身に付けていることが多かったようですが、(家康なんかは『論語』『孫子』を読んでいましたし)
その下の者の心得はあくまでも忠義を尽くすことにありました。
山鹿素行より少し後の時代の山本常朝は、『葉隠』で以下のような有名な言葉を残しています。
武士道というは、死ぬ事と見付けたり。
『葉隠』
一日中、主君に対して忠誠を尽くすこと、常朝は主君への忠誠心を恋心にも似たものと説いています。
江戸時代にもこういう武士道を提唱する人がいました。
そんな中で山鹿素行は新たな武士のあり方「士道」を説いたのです。
尊王思想
実は山鹿素行は天皇制を肯定している主張もしています。
それが『中朝事実』です。
「中朝」とは中心の王朝(世界の中心)のことを表します。
当時の日本にはいまだ、中華思想が浸透していました。
世界の中心である中国(中華思想)は優れている、日本はそれよりも劣るという考えです。
山鹿素行はそれを否定します。
中国は王朝が革命により何度も途絶えています。
日本の天皇を歴史として研究した彼は、万世一系の天皇こそ優れた君主であり、
その君主がいる日本こそ、世界の中心=中朝(※中華という言葉を避けた形で「中朝」と言ったとされる)であると主張しました。
シンプルに、「日本はとても優れているんだ」と言ったことに賛同した人たちが多くいました。
吉田松陰も、乃木希典もその一人であったといわれます。
彼らは山鹿素行の影響を受け、その後日本を強くしていくことに尽力していったのです。
まとめ
以上が山鹿素行の思想でした。
特に、「士道」の主張、則ち、「武士は教養をみにつけ、三民の師となるべき」という思想は
当時の武士に新たな人生観を提示しました。
また、彼は尊王思想も展開していました。
幕末ほどの盛り上がりはなかったものの、幕末、明治の有名人にまで影響を与えたと言われています。
この記事を読んで、山鹿素行についてもっと知りたいという人は以下の書物を参照ください。
ご覧いただき、誠にありがとうございました。
他にもたくさん書いてますので、ぜひご覧ください。
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