こんにちは、よっとんです。
歴史・心理・哲学や本紹介のブログを書いています。
本日は、「4つの窓口(朝鮮編):対馬の宗氏の努力とは?」です。
このブログを読めば、
・江戸時代、日本は朝鮮と貿易していたのか?
・どのような過程で日本と貿易をするようになったのか?
の2点がわかります!ぜひ最後までご覧ください!
江戸時代前の朝鮮との関係
江戸期前の朝鮮との関係は最悪でした…
ある人が朝鮮へ攻め入ってしまったからです。
その人物は、豊臣秀吉です!
秀吉は天下統一を成した後に「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)を行いました。
理由は諸説ありですが、中国まで自分の影響力を伸ばしたかったからだといわれています。
朝鮮半島からすれば「ふざけるな!」という感じですよね。
そちらの都合で勝手に攻め込まれた…そんな国とはもう国交を開きません!
という風になっても仕方ありません。
つまり、江戸期に入る前までは日本は朝鮮と貿易すらできない状態だったのです
対馬の宗氏の努力とは?
朝鮮と江戸期前は貿易すらできなかったことを述べました。
江戸幕府をひらいた家康は貿易推進派の人間でしたので、
朝鮮とも貿易を望んでいました。
そして、何より朝鮮との貿易を渇望していた藩がありました。
それが長崎の「対馬藩」です。
対馬藩は場所が悪く、農業に適さない土地でした。
彼らが室町時代からずっと藩を存続できた理由こそ、
朝鮮との貿易でした!
対馬は地理的に朝鮮半島と日本列島の間に位置するという立地のよさから、
貿易にはとても適した場所だったのです。
しかし、先ほど言った通り、安土桃山時代に朝鮮とは完全に断交状態になってしまいました…
困った対馬藩のリーダーである宗氏は何度も朝鮮に国交回復を請願するのですが、
復活させる様子をあまり見せませんでした。
しかし、宗氏はあきらめませんでした。
自分の藩の経済がかかっていますから、
断られても断られても何度も懇願したのです。
すると、朝鮮側から二つの条件をのめば国交を再開しよう、と言われます。
その条件とは、
① 家康のほうから朝鮮側に国書を送付すること
② 朝鮮出兵の際に朝鮮の墓を荒らした犯人を差し出すこと
の2つでした。
対馬藩は一大名ですから家康に国書を書いてもらうわけにもいかず…
さらに犯人を突き止めるのは至難の業…
どちらの条件の対馬の宗氏にとっては無理難題でした・
そこで彼が行ったのは、
国書を偽造すること、
さらに犯人も偽りの人物を差し出すことでした。
ここまできたら、その執念はすごいですね(笑)
対馬の宗氏は、偽造国書と対馬にいた罪人を墓荒らしの犯人として送ったのでした。
貿易は復活したのか?
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpgさて、対馬の宗氏の努力は実ったのか・・・
見事に実りました!
1607年2代目将軍秀忠の元に朝鮮は正式に施設を派遣し(回答兼刷還使)、
1609年には「己酉約条」を結んで、家康は朝鮮と講和して国交を開きました。
年間20隻ですが、貿易もすることができるようになりました。
その後、釜山には倭館を設置し、貿易は対馬藩の宗氏が担うことにもなりました。
おめでとう、宗氏。これで対馬藩の首の皮一枚つながりましたね。
さらに、将軍の代替わりごとに「朝鮮通信使」 が送られることにもなりました。
1811年までの間の12回までは朝鮮から通信使が来ています。
この通信使はかなりの人数がいたようで、
一説によれば朝鮮からは400~500人規模の団体が江戸までやってきました。
その護衛費用や宿泊代に幕府は莫大な費用がかかったそうで・・・
後に正徳の治で有名な新井白石が簡素化をすることにもなります。
まとめ
以上、「4つの窓口(朝鮮編)対馬の宗氏の努力とは?」でした
まとめると、
・もともと秀吉の朝鮮出兵以降朝鮮とは国交が断絶されていた
・対馬の宗氏の懇願によって国交が回復、癸酉約条で貿易も再開した
という感じです。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
参考文献を載せておきますので是非ご覧ください!
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