私たち人間にとって、幸福は普遍的な願いです。
しかし、その「幸福」が何を意味し、どうすればたどり着けるのかという問いは、古くから多くの哲学者が探求してきたテーマです。
今回は、哲学史に名を刻む3人の偉大な思想家、
アリストテレス、イマヌエル・カント、ジェレミー・ベンサムが、それぞれ異なる視点から
「幸福への道筋」をどのように描いたのかを見ていきましょう。
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アリストテレス:徳と中庸がもたらす幸福
幸福について考えた最初の人に、古代ギリシャの偉大な哲学者アリストテレスがいます。
彼は、私たち人間が最終的に目指すべき究極の目標は「幸福」であると考えました。
彼が言う幸福とは、単なる「楽しい気分」や「一時的な喜び」ではありません。
アリストテレスは、幸福のことを「エウダイモニア」(eudaimonia)と呼びましたが、
エウダイモニアは、直訳すると「良いダイモン(魂、守護霊)を持つこと」といった意味合いです。
もっと分かりやすく言えば、「人間として最高の状態を生きること」や「潜在能力を最大限に発揮し、充実した人生を送ること」を指します。
では、どうすればこの「エウダイモニア」にたどり着けるのでしょうか?
アリストテレスは、その鍵を「理性」と「徳」(アレテー)に見出しました。
理性を使いこなし「徳」を追求する
アリストテレスは、「人間には理性がある」という点を非常に重要視しました。
私たち人間が他の動物と違うのは、物事を考え、判断し、行動を選び取ることができる理性を持つからです。
そして、この理性を最大限に活用し、「徳」(アレテー)を追求することこそが、幸福への道だと考えたのです。
「徳」と聞くと、少し難しく感じるかもしれませんが、
アリストテレスが言う徳は、単なる「良い行い」というよりは、
「ある存在がもっている能力を、最高の形で発揮できる状態や性質」と考えると分かりやすいでしょう。
例えば、魚には魚の徳(泳ぐこと)、馬には馬の徳(走ること)があります。
アリストテレスは人間のもつ徳を大きく2種類に分けました。
- 知性的な徳: 理性を正しく使い、物事を深く理解する能力(例:知恵、思慮深さ)。
- 習慣的な徳: 感情や欲望を理性でコントロールし、適切な行動をとる能力(例:勇敢さ、節制、寛容さ)。
アリストテレスにとって、これらの徳を発揮している状態、
つまり理性を使って適切に考え、行動している状態そのものが、まさに幸福な状態にほかなりません。
最高の人間らしい活動である理性の発揮こそが、真の幸福だと考えたのです。
習慣的な徳を身に着けるには?
特に私たちが日常生活で意識しやすいのは「習慣的な徳」です。
具体的に言えば、勇敢や節制などがそれにあてはまります。
アリストテレスは、これらの徳は「中庸(メソテース)」を見つけることによって身につくと説きました。
中庸とは、極端に走りすぎず、かといって不足しすぎもしない、ちょうど良いバランスのことです。
例えば、「勇敢さ」という徳を考えてみましょう。
- もしあなたが「無謀」に行動すれば、それは勇敢さではありません。向こう見ずに危険に飛び込むのは、ただの無計画な行動です。
- 逆に、何もかも恐れて「臆病」になるのも徳ではありません。必要な場面で一歩も踏み出せないのは、人間らしい能力を発揮できていない状態です。
アリストテレスが考える「勇敢さ」とは、
「適切な状況で、適切な判断をもって、恐れと自信のバランスをとりながら行動する勇気」なのです。
これは、経験と理性によって培われるもので、過剰でも不足でもない「真ん中の道(中庸)」を見つけることで得られます。
このように、それぞれの徳において「過剰」と「不足」の間の「中庸」を理性的に見つけ出し、それを日々の生活で習慣的に実践すること。
アリストテレスは、そうすることで私たちは人間としての能力を最大限に引き出し、充実した、そして真に幸福な人生を送ることができると考えたのです。
彼にとって幸福は、ある行動の結果として一時的に得られる感情ではなく、理性的な活動を通じて人生全体で築き上げていく究極の目標だったんですね。
カント:義務と善意に根差す幸福
18世紀のドイツを代表する哲学者、イマヌエル・カントは、「幸福になること」を人生のゴールと考える一般的な視点とは、まったく異なる倫理観を提唱しました。
彼にとって、倫理の目的は「幸福の追求」ではなく、「義務を果たすこと」にある、と明確に打ち出したのです。
カントが最も大切にしたのは、「義務」と「道徳法則」でした。
彼は、どんな状況でも普遍的に(例外なく)守るべき道徳のルールがあると考え、
それを「定言命法(ていげんめいほう)」と呼びました。
この「定言命法」に従って行動することこそが、本当に正しい、つまり道徳的な行いだとカントは考えました。
なぜ「動機」が大切なのか?
カントの倫理思想を理解する上で、非常に重要なのが「動機」です。
彼が言うには、ある行為が道徳的であるかどうかは、
その行為によって「どんな結果が得られたか」ではなく、
「なぜその行為をしたのか」という心の動機にかかっているのです。
たとえば、あなたが道で困っている人を見かけ、お金を寄付する場面を想像してみましょう。
もしあなたが「周りの人から良い人だと思われたいから」とか、
「後で何かの形で自分にメリットがあるかもしれないから」という理由で寄付したとしたら、
カントの考えでは、それは純粋な道徳的行為ではありません。
確かに結果として困っている人は助けられましたが、動機が個人的な感情や利益に基づいているからです。
しかし、もしあなたが「困っている人を助けるべきだ」という、
誰が見ても、いついかなる時でも正しいと考えられる普遍的な義務感から寄付したのだとしたらどうでしょう?
たとえその寄付があなたにとって何の得にもならなくても、
あるいは、寄付したお金が思わぬ形で使われてしまったとしても、
その行為自体は道徳的に「価値がある」とカントは考えます。
なぜなら、あなたの行動の源が、個人的な感情や損得勘定を超えた「義務」に基づいているからです。
カントは、私たちが個人的な感情や欲望に流されることなく、
理性を使って「定言命法」という道徳法則を自らに課し、それに従うことこそが、人間の尊厳を守る道だと考えました。
そうした行動をすることで、私たちは人間として「価値ある存在」となり、
その結果として「幸福」が副産物的に得られるのだ、とカントは示したのです。
つまり、カントにとって幸福とは、最初から追い求めるものではなく、
「義務を純粋に果たし、道徳法則を尊重した結果としてついてくるもの」だったのですね。
ベンサムが提唱した「みんなの幸福」を最大にする考え方:功利主義
18世紀から19世紀にかけて活躍したイギリスの哲学者、
ジェレミー・ベンサムは、これまでの哲学とは異なる、とても実用的な倫理の考え方を提案しました。
それが「功利主義(こうりしゅぎ)」です。
彼の思想の最も大切な部分は、「最大多数の最大幸福」という原則に集約されます。
これはつまり、「最も多くの人々に、最も大きな幸福をもたらすこと」こそが、倫理的に正しい行いである、という考え方です。
ベンサムは、ある行為が良いか悪いかは、
その行為がどれだけ私たちに「快楽(喜びや満足)」を与え、「苦痛(不快や不満)」を減らすか、
という「量」で判断できる、と考えました。
彼は、快楽と苦痛は客観的に測ることができるものだと考えていたんですね。
例:「橋の修理」から見る功利主義
もう少し具体的に、ベンサムの功利主義を身近な例で考えてみましょう。
ある地方に、とても古くなって危険な橋があるとします。
この橋を修理するには、多額の税金、例えば1億円が必要だとしましょう。
しかし、この橋を使う人は、毎日たった10人くらいしかいません。
一方で、もしこの1億円を、町の中心部にある広い公園を整備するために使ったとしたらどうでしょう?
新しい遊具を設置したり、広場をきれいにしたりすることで、
毎日何百人、何千人もの子どもたちや住民が笑顔になり、快適に過ごせるようになります。
ベンサムの功利主義の考え方でこの状況を判断すると、こうなります。
- 橋の修理: 1億円を投じても、幸福になるのは少数の人だけ。
- 公園の整備: 同じ1億円で、より多くの人が、より大きな幸福(快楽)を得られる。
この場合、ベンサムの功利主義は、「公園の整備に費用を充てるべきだ」と判断します。
なぜなら、その方が「最大多数(より多くの人々)の最大幸福(より大きな喜び)」を実現できるからです。
個人の幸福ももちろん大切ですが、ベンサムは、社会全体で見たときに、全員の幸福の合計が最も大きくなる選択こそが、倫理的に正しいと主張したのです。
このように、ベンサムにとって、幸福とは「快楽と苦痛の計算」によって客観的に測れるものでした。
そして、その行為がもたらす「結果」が、倫理的に正しいかどうかを決定する、
という点が彼の功利主義の大きな特徴なんですね。
比較から見えてくる「幸福」の多様性
アリストテレス、カント、ベンサムの思想を比較すると、「幸福への道筋」には実に多様なアプローチがあることがわかります。
- 行為の動機と結果:
- アリストテレスは、徳を追求する行為そのものが幸福に繋がると考えました。
- カントは、動機が「善意」と「義務」に基づいているかを重視し、結果は二の次としました。
- ベンサムは、行為がもたらす結果としての「幸福の量」を最重要視しました。
- 個人の幸福と社会全体の幸福:
- アリストテレスとカントは、主に個人の内面的な成長や道徳的なあり方に焦点を当てて幸福を論じました。
- 一方、ベンサムは社会全体としての幸福の総量を最大化することを目指しました。
- 幸福を測る基準:
- アリストテレスは、徳を習得し実践する人生の質全体をもって幸福を評価しました。
- カントは、理性に基づいた道徳法則への純粋な従順さを基準としました。
- ベンサムは、快楽と苦痛の量という数値的基準で幸福を測ろうとしました。
このように、哲学者の視点によって「幸福」の捉え方は大きく異なります。
あなたは、これらのどの思想に最も共感しますか?
あるいは、異なる哲学者の考え方を組み合わせることで、あなたなりの「幸福への道筋」を見つけることができるかもしれません。
このブログ記事を読んで、あなたの「幸福」について考えるきっかけになれば幸いです。
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