自由と決定論の対立 – スピノザ、カント、サルトルの思想を読み解く

哲学・倫理学

人間の「自由」とは一体何でしょうか?

私たちは自分の意志で選択し、行動していると信じていますが、

一方で、私たちの行動は遺伝子や環境、過去の出来事によってあらかじめ決定されているのではないかという考え方も存在します。

この根源的な問いに対し、歴史上の偉大な哲学者たちは様々な角度から考察を深めてきました。

今回は、一見すると対立するように見える「自由」と「決定論」というテーマを軸に、

バールーフ・デ・スピノザイマヌエル・カント、そしてジャン=ポール・サルトルという

三人の思想家の視点を通して、人間の自由の可能性と限界について探っていきましょう。

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スピノザが考える「自由」:必然性の中で輝く自己

17世紀の哲学者スピノザは、「自由」について、

私たちが普段考えるのとは少し違う、非常に奥深い考え方をしていました。

彼の思想の中心には、「すべては必然的に起こる」という汎神論的決定論(はんしんろんてきけっていろん)」があります。

「汎」とは「すべて」という意味で、

つまり宇宙に存在する森羅万象、私たちの行動や感情も含めて、すべてが神(=自然)の厳密なルール(必然性)に基づいて起こっていると説いたのです。

この考え方を聞くと、「じゃあ、私たちには自由なんてないの?」と感じるかもしれません。

しかし、スピノザの答えは「ノー」でした。

彼は、まさにこの「必然性」の中にこそ、本当の「自由」が隠されていると考えたのです。

スピノザの「自由」の定義を読み解く

スピノザは、彼の主著である『エチカ』の冒頭で、「自由」を次のように定義しています。

自己の本性の必然のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。

この一文は一見難しく見えますが、ポイントは「自己の本性」と「他から決定される」という対比です。

スピノザにとって自由とは、外部からの影響ではなく、自分自身の内なる法則(本性)に基づいて、最大限に生きることを意味します。

「必然」の中で発揮される「コナトゥス(努力)」としての自由

「必然」と「自由」は、一般的には反対の言葉と捉えられがちです。

しかし、スピノザはそうは考えません。

彼は、ある一定の「必然的な条件」の中で、自分自身の能力を最大限に発揮することこそが自由であると説きました。

この「自己の存在を維持し、完成させようとする努力の力」を、彼は「コナトゥス(conatus)」と呼びました。

いくつかの例で考えてみましょう。

人間の腕の例

私たち人間は腕を持っていますが、

「腕を自由に動かす」というのは、腕をどんな形にも変形させたり、無限に伸ばしたりできる、という意味ではありません。

そうではなく、腕が持っている本来の可動域(これが「必然」です)の中でできる限り最大限に動かし、その能力を存分に発揮することが、「腕を自由に動かす」ということなのです。

腕の物理的な限界を知り、その限界の中で最も効果的に使うことが、腕の「自由」である、とスピノザは考えます。

魚の例

魚は水中に生きています。

彼らの「自由」とは、水から飛び出して空を飛ぶことではありません。

魚が自由に生きるとは、水という彼らの存在を規定する環境(必然)の中で、最大限に泳ぎ、獲物を捕らえ、生命を維持することです。

水の中という必然的な条件の中で、魚としての能力を最高に発揮している状態が、魚にとっての自由なのです。

「自由」の反対は「強制」

では、スピノザにとって「自由」の反対は何でしょうか?

それは「必然」ではなく、「強制」です。

強制とは、私たちが自分自身の内なる本性や能力(コナトゥス)を最大限に発揮しようとする努力を、外部の要因が踏みにじることです。

言い換えれば、私たちの行動や状態が、自分自身の内側からではなく、外からの力によって一方的に決められてしまうことを指します。

例えば、物理的に拘束されたり、誰かの意志によって行動を制限されたりする状態は、「強制」であり、スピノザが説く自由とは対極にあるものです。

つまりスピノザは、私たちの存在や行動が宇宙の必然的な法則に則っていることを認めつつも、

その法則を深く理解し、自己の内なる本性を最大限に発揮しようと努力することこそが、真の自由であると考えたのです。

私たちは、決まった枠の中でこそ、最大限に輝ける、という彼のメッセージは、現代を生きる私たちにも示唆に富んでいると言えるでしょう。


カントが考える「自由」:わがままじゃない、理性で選ぶ「自律」の力

前のセクションでスピノザの考える「必然性の中の自由」を見てきました。

今度は、それとは全く違う視点から「自由」を捉えた、18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えを見ていきましょう。

私たちは「自由にする」と聞くと、「好きなことを好きなだけやる」「誰にも邪魔されずにわがままに生きる」といったイメージを抱きがちです。

しかし、カントにとっての「自由」は、このような欲望のままに振る舞うこととは真逆でした。

カントは、「本当に自由な人間」とは、自分の欲望や感情に流されるのではなく、

理性を使って自分自身で正しいルール(法則)を作り、それに従って行動できる存在だと考えました。

この「自分で自分を律する力」を、彼は「自律(じりつ)」と呼びました。

「道徳法則」と「定言命法」:みんなに当てはまる正しいルール

では、カントが言う「理性で立てる正しいルール」とは何でしょうか?

それは、「普遍的な道徳法則」です。

簡単に言えば、「誰にとっても、どんな状況でも、正しいと認められるルール」のことです。

カントの有名な言葉に、次のものがあります。

汝(なんじ)の格率(かくりつ)が常に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ

これは、彼の主著の一つである『純粋理性批判』で述べられている言葉で、

「定言命法(ていげんめいほう)」とも呼ばれます。

ちょっと難しく聞こえますが、これはつまり、

あなたが行動するときに心の中で立てるルール(格率)が、もし誰もが同じように従ったら、それでも世の中がうまくいくか、考えてから行動しなさい

という意味です。

例えば、「困っている人がいても、自分に関係ないから助けない」というルールを立てて行動したとします。

もし世界中の誰もがこのルールに従ったら、どうなるでしょう?

誰も助け合わず、社会は成り立たないはずです。

だから、このルールは「普遍的な道徳法則」にはなり得ません。

カントは、このように「誰にでも当てはまる普遍的なルール」を見つけ出し、それに従うことこそが、本当の自由だと考えたのです。

友人を助けるか、自分の時間を優先するか?カント的「自由」の選択

具体的な例で考えてみましょう。

あなたは、困っている友人を助けるか、それとも自分の時間を優先して遊びたいかで悩んでいるとします。

  • 自分の時間を優先したい:これは、あなたの感情的な欲求衝動です。
  • 困っている人を助けるべきだ:これは、あなたの心の中にわき上がる道徳的な義務感です。

この状況であなたが道徳的な義務に従って友人を助けることを選んだとします。

このとき、あなたは単に「助けたい」という感情に流されたのではありません。

また、「助けないと友人に嫌われる」というような外部からの強制や計算でもありません。

そうではなく、あなたは理性的に「困っている人を助けるのは正しいことだ」と判断し、その普遍的な道徳法則に従って行動したのです。

この「義務のために義務を行う」という行為こそが、カントが考える真の自由であり、

自律的な選択」の証なのです。

たとえ、自分の心の中の誘惑や、外からのプレッシャーがあったとしても、それらを乗り越えて、理性的な判断に基づき、正しいと信じる行動を取れること。

これこそが、人間を人間たらしめる最も大切な「自由」であり、私たちが道徳的に行動できる根拠なのだ、とカントは力強く主張しました。


サルトルが考える「自由」:選ぶ責任、そして「不安」と「絶望」の先に

これまで、スピノザとカントの「自由」に対する考え方を見てきました。

ここからは、20世紀のフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルが提唱した、さらに 過激な「自由」の概念に迫ります。

サルトルの思想は、カントの自由の考え方をさらに推し進め、人間の自由を究極まで強調しました。

「人間は自由の刑に処されている」という衝撃的な言葉

サルトルを代表する言葉に、

人間は自由の刑に処されている(L’homme est condamné à être libre)

というものがあります。

この言葉は、一見するとネガティブな響きに聞こえるかもしれません。

しかし、これは「私たちはとてつもなく自由であり、その自由から逃れることはできない」という意味です。

どういうことかというと、サルトルは、人間には生まれながらにして定められた「本質」や「目的」はないと考えました。

例えば、コップには「飲み物を入れる」というあらかじめ決まった目的(本質)があります。

しかし、人間にはそうした「決まり(本質)」がないというのです。

サルトルは、

私たちはまずこの世界に「投げ出され」(生まれて)、「存在(exister)」する。

そして、その後に私たち自身の行動や選択によって、「何者になるか」という「本質(essence)」を自分で作り上げていく、と説きました。

まるで、まっさらなキャンバスに、自分で絵を描いていくようなものです。

過去の経験や育った環境が私たちに影響を与えることは、サルトルも認めます。

しかし、最終的に「何を考え、どう行動するか」という「選択」の責任は、常に私たち自身にある、と彼は主張したのです。

無限の自由がもたらす「不安」と「絶望」

このサルトルが提唱する無限の自由は、同時に「不安(Angoisse)」「絶望(Désespoir)」といった感情を伴うとされます。

なぜ不安や絶望を感じるのでしょうか?

それは、私たちが常に選択を迫られ、その選択の結果すべてに責任を負わなければならないからです。

「これが正解だ」と教えてくれるガイドブックはありません。

あらゆる選択が、自分自身の責任において行われるため、

常に「これでよかったのか?」「もし失敗したらどうしよう?」

という重圧にさらされることになります。

例えば、大学卒業後の就職活動を考えてみましょう。

あなたは特定の会社に入るように誰かに強制されているわけではありませんし、

将来の職業が遺伝子で決まっているわけでもありません。

目の前には、安定した大企業を選ぶ、スタートアップで挑戦する、

あるいは全く異なる分野に進むなど、様々な選択肢があります。

サルトルによれば、

この時あなたは「何者になるか」という自己の本質を、まさに自らの選択によって創造しているのです。

安定を選べば、安定した自分という本質を創造します。

挑戦を選べば、挑戦する自分という本質を創造します。

この選択には、もし失敗したらどうしようという「不安」が付きまといます。

すべて自分の責任だからです。

しかし、サルトルは、この重い責任こそが、私たちに真の「実存(じつぞん)」を与えるとしました。

「実存」とは、単に生きているだけでなく、

自分自身の存在意義を自ら作り上げ、自分だけの人生を主体的に生きることです。

不安や絶望を伴うとしても、この「自由な選択と責任」こそが、私たちを真に人間らしい存在にするのだ、

とサルトルは考えたのです。


結び:それぞれの「自由」から何を学ぶか

スピノザの「必然性を認識する自由」、カントの「理性による自律的な自由」、そしてサルトルの「選択と責任を伴う絶対的な自由」。

これら三人の哲学者の思想は、自由という概念に対する異なるアプローチを示しています。

・決定論的な世界観の中でいかにして自由を見出すか

・理性の力によっていかに自らを律するか

・無限の選択肢の中でいかに自己を形成していくか

彼らの問いは、現代社会を生きる私たちにとっても、自己の存在や行動の意味を深く考えるための貴重な手がかりを与えてくれます。

あなたは、どの哲学者の「自由」に最も共感しますか?

そして、あなたの考える「自由」とはどのようなものでしょうか?

ぜひ一度考えてみてください。

以下は参考文献ですのでぜひご覧ください。

・はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (國分功一郎 (著))

・カント入門(石川文康 (著))

・NHK「100分de名著」ブックス サルトル 実存主義とは何か(海老坂 武 (著))

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