日本の律令制において、治安維持や官吏の監督など、それぞれ異なる役割を担っていたのが弾正台、五衛府、検非違使です。
今回は以下2点についてお伝えします。ぜひご覧ください。
①弾正台、五衛府、検非違使の違いは?
②検非違使はなぜ必要だったの?
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弾正台、五衛府、検非違使の違いは?
繰り返しになりますが、日本の律令制において、治安維持や官吏の監督など、
それぞれ異なる役割を担っていたのが弾正台、五衛府、検非違使です。
まずは、その3つの役職の違いについて説明します。
弾正台(だんじょうだい):奈良時代~
弾正台の役割は主に3つです。
①官僚の不正の監視・糾弾
中央の官僚や諸官庁の違法行為や不正を監督し、弾劾することを主な職務としました。
現代の監察庁や会計検査院に近い役割です。
②京内の風俗・治安の取り締まり
都の風俗の乱れや治安の維持も担当していました。
③警察権
犯人の追捕を行い、京職や刑部省に引き渡す権限を持っていました。
ただし、自ら裁判を行う権限はありませんでした。
この裁判権をもっていないという点がのちの検非違使誕生にかかわります。
弾正台は、律令制下で、二官八省から独立した「一台」として設置されました。
五衛府(ごえふ):奈良時代~
五衛府の役割は以下の通りです。
①都の警備・防衛
宮城(天皇の住む宮殿)の警備や、都の治安維持を主な任務としました。
天皇の日常や行幸時の身辺警護も行いました。
②軍事組織
律令制下の中央軍事組織であり、衛士(えじ)や兵衛(ひょうえ)と呼ばれる兵士を統括していました。
※構成
律令制当初は以下の5つの衛府から構成されていました。
- 衛門府(えもんふ): 宮城の門の警備を担当。
- 左衛士府(さえじふ)・右衛士府(うじんふ): 宮城の外側の広範囲な警備を担当。主に庶民から集められた衛士が中心。
- 左兵衛府(さひょうえふ)・右兵衛府(うひょうえふ): 宮城の内側の警備を担当。地方の有力者の子息など、エリートが中心。
※後に、近衛府が設置されて「六衛府」となるなど、時代とともに変遷しました。
五衛府は警察的な役割も担っていましたが、基本的には軍事・警備が主たる職務でした。
今で言えば警備隊のような組織で、軍事に少し偏っています。
都の防衛体制の要であり、国家の安全保障を担っていました。
検非違使(けびいし):平安時代初期~
検非違使の役割は以下の通りです。
①京内の警察・裁判
平安時代初期(嵯峨天皇の時代)に、都の治安悪化に対応するために設置された
「令外の官(律令に規定のない官職)」です。
当初は京内の犯罪者の逮捕や風俗の取り締まりが中心でしたが、
次第に訴訟や裁判、さらには刑の執行まで行うようになり、非常に強大な権力を持つようになりました。
②他官庁の職掌の吸収
弾正台の監察・警察権、刑部省(ぎょうぶしょう)の司法権、京職(きょうしき)の行政・治安・司法権といった、
他の律令官庁の職掌を次々と吸収していきました。
まとめると
官職名 | 設置時期・性質 | 主な役割 | 特徴 |
弾正台 | 律令制下の官庁 | 官僚の不正監視、都の風俗取り締まり | 裁判権なし。検非違使の台頭で形骸化。 |
五衛府 | 律令制下の軍事組織 | 宮城・都の警備・防衛、天皇の身辺警護 | 基本的に軍事・警備が主。 |
検非違使 | 平安時代初期の令外の官 | 京内の警察・裁判、犯罪者逮捕、風俗取り締まり | 弾正台・刑部省などの職務を吸収し強大な権力を持つ。 |
このように、それぞれが異なる起源と役割を持ちながらも、
特に平安時代以降は検非違使がその権限を拡大し、弾正台や五衛府の一部機能を実質的に引き継いでいくことになります。
平安時代から検非違使はなぜ必要だったのか
検非違使は平安時代初期(嵯峨天皇時)に設置されました。
つまり律令制が始まった当初は設置されていなかったのです。
なぜ、検非違使が必要だったのか、主に以下の点に集約されます。
平安時代頃からの治安の悪化
律令制を初めて数十年を経ると、そのほころびが見え始め、
律令制が機能不全におちいってきました。
具体的には、
- 口分田の配布が限界に達し、農民の生活基盤が不安定になった
- 徴税を逃れる人が出てきたことで、国家安定した収入が得られなくなった
- 国司が搾取をしたりする不正が横行し、無責任な国司が増えた
- 徴税の負担から逃れた人々による犯罪が増加、社会不安
- 「軍団制」の廃止による一時的な軍事力の不足
などがあげられます。
そして、治安の悪化とともに都での犯罪が増加しました。
従来の弾正台・五衛府だけでは犯罪を減らすことができず、応急措置として検非違使が置かれることになります。
検非違使は平安時代初期の治安悪化に対応するために設置
律令官司の限界
律令制における行政・司法を担う官僚の仕事に限界があったことも、検非違使設置の理由です。
具体的には
- 弾正台の不十分な権限: 弾正台は官僚の不正を監視し、京内の風俗を取り締まる権限を持っていましたが、犯人を逮捕する権限はあっても、自ら裁く権限はありませんでした。犯罪を発見しても、それを刑部省や京職に引き渡す必要があり、手続きが煩雑で迅速な対応が困難でした。
- 刑部省の専門性: 刑部省は司法機関でしたが、あくまで裁判を行う機関であり、現場での警察活動や犯罪者の追捕は専門ではありませんでした。
- 京職の限界: 京職も都の行政・治安・司法を担っていましたが、広範な業務を抱える中で、急増する犯罪への対応が追いつかなくなっていました。
- 五衛府の軍事偏重: 五衛府は都の警備や宮城の防衛を担う軍事組織であり、必ずしも警察的な実務に長けていたわけではありませんでした。
以上のように律令制下はある意味分業体制がとられ、今で言えば分権化ができていたのですが、
犯罪が急増していた平安初期にその分権化が足かせとなっていました。
そこで検非違使は、従来は別々の担当者に任せていた、逮捕の権利と司法の権利をすべて一挙に担うことにしました。
急増する犯罪に対応するため、手続きの煩雑さをなくし、効率的・迅速的な対応を可能にした組織が検非違使です。
検非違使は律令制下で別々に担当していた逮捕の権利、裁く(刑を下す)権利を吸収し、迅速かつ効率的な仕事を可能にするために設置!
権限の強化
繰り返しになりますが、
検非違使は、弾正台の警察権、刑部省の司法権、京職の行政・治安・司法権といった、
複数の官庁に分散していた権限を「令外官(律令の規定にない)」として統合しました。
これにより、捜査から逮捕、さらには裁判・刑の執行までを一貫して行うことが可能となり、迅速かつ効率的な対応が可能になりました。
さらに、検非違使は天皇の宣旨(命令)によって設置・運営されました(嵯峨天皇が設置した令外官でした)ので
既存の律令制の枠組みに縛られず、時々の必要性に応じて柔軟に対応できる組織でした。
これは今で言えば、官僚の人事の手続きが煩雑なので
総理大臣の下の内閣人事局の権力を向上させることに似ているかと思います。
当時は、分散化させていた権限を、再び天皇の権力に戻すことい力を注いだといってもよいと思います。
検非違使を地方へ派遣
平安時代は、当初の律令制で目指した公地公民制(すべては国の土地にしよう!)が崩壊し、
荘園(私有地)が増加していました。
また、国司の不正なども横行し、地方の治安も不安定化していたので、
検非違使の権限は京内だけでなく、諸国にも拡大していきました。
これは、律令制が想定していなかった社会構造の変化に対応するためのものでもありました。
しかし、この対応は武士の台頭への対応を招くことにもなります。
検非違使の中には、武官が多く登用され、実力のある武士がその職に就くことで、彼らの活躍の場となりました。
これは、やがて武士が政治の中枢に進出していく下地ともなりました。
その後、武士の時代(鎌倉時代)がやってくることになります
まとめ
検非違使は、律令制の限界と、それに伴う治安の悪化という喫緊の課題に対し、
既存の官司では対応しきれない状況を打破するため、
その権限を強化・統合した、実務的かつ強力な治安・司法機関として必要とされたのです。
その設置は、律令制が形骸化していく中で、実質的な権力が天皇や特定の官職に集中していく、
平安時代の政治体制の変化を象徴するものでもありました。
今回の記事を参考に奈良時代~平安時代の警察的な組織の構造を抑えてくれればと思います。
ここまでありがとうございました。
(参考文献)
・『古代史講義 ──邪馬台国から平安時代まで』佐藤信 (編集)
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