福沢諭吉は何故「脱亜論」を説いたの?

哲学・倫理学

皆さん、こんにちは。よっとんです

歴史・哲学倫理・心理、それから本紹介のブログを書いています。

本日は「福沢諭吉を忘れるなプロジェクト第4弾」です。

今回は「福沢諭吉はなぜ「脱亜論」を説いたの?」について述べていきたいと思います。

以前までのものを見ていない方は載せておきますので、ぜひそちらも参考ください。

そもそも脱亜論って?

まず簡単に「脱亜論」を出版された背景とともに説明しておきます。

福澤諭吉は西洋への遠征を終えたのち、『西洋事情』や『学問のすすめ』といった

大ベストセラー本以外にも、数多くの著書を出します。

有名どころの『文明論之概略』をはじめ、『福沢文集』『通貨論』『通俗国権論』など、

その執筆活動は1901年に亡くなるまでずっと続きました。

その中で彼は『時事新報』という新聞で「脱亜論だつあろんを展開しています。

明治初期には天賦人権思想や平等・自由を唱えた福沢諭吉でしたが、

脱亜論では、「アジアから脱して、ヨーロッパと交流していくべき」という主張をしているのです。

実際、諭吉の書く『時事新報』を待ちに待った当時の人々も内容を見てびっくり。

当時流行りの民権思想を支持してくれるかと思いきや、それには中立的な立場をとり、

かつ強硬的な路線へシフトしていこうというものだったのですから。

では、彼の主張は今までのものと変わってしまったのでしょうか?

そして、彼は「脱亜論」を説いたのか?

次から、簡単に説明していきたいと思います。

「一身独立して一国独立」して官民調和を目指せ!

福沢諭吉は「脱亜論」よりも前に出した『学問のすすめ』では、

「一身独立して一国独立す」を主に唱えています。

これは国民一人一人が独立、つまり他人に依存せず、精神的に独立した状態になることで、

国全体の力が上がることを目指すものです。

政府だけが優秀で、全て任せてしまうような国では、

国民はお客さんのようになり生産性が落ちることになります

さらに、政府を監視したり、政府を否定するような刺激がなくなってしまいます。

これでは国は強くなりませんね。

だから、大事なのはすべての国民が自分で独立心を身に付け、

国全体を盛り上げていくことなのです。

このように国民(民)が力をつけて政府(官)と協力するようになり、結果的に官と民が調和していくありかたを

「官民調和」といいます。

これが諭吉が目指す日本のあり方でした。


官民調和を提唱した背景を簡単に説明しときます。

1880年代の日本は自由民権運動が展開されている時代でした。

民権運動側は政府(官)に対して民権を主張します。

特に参政権です。

当時は藩閥政府という元薩摩・長州藩が主に政治を担っている状態でしたし、

どうしても税金が必要で、参政権がないのに、納税をさせられているありさまでした。

だから、国民は反発したのです。ここから考えれれば、民権運動は「官vs民」ということになります。

諭吉は民権運動家たちの主張もわかってはいました。

納税と参政権は交換されるべきものだと。

しかし、まず戦争が近づきつつあること、それから国力を上げていかなくてはならないことを考慮し、

彼は「官民調和」を主張したといわれています。

したがって、ここでの主張は「民権運動を抑えて、官に協力すべき」と示したものでした。

ただ、繰り返しになりますが、諭吉の主張はあくまでも「一身独立して一国独立す」ですので、

官尊民卑的な立場では決してありません。

政府の権力を振りかざすやり方は批判していますし、

あくまでも国力の源は一身独立することにあると考えています。

そこの考えは終生まで変わらなかったので、彼はずっと塾で勉強を教え、

次の世代を担うものを育て続けたのですから。

では、次に脱亜論をなぜ述べたのか、記していきます。

「脱亜論」を出したのは何故?

明治時代、富国強兵を果たした日本は次なる課題に直面します。

それは、アジアの一国として生きるのか、それとも欧米とともに生きるのか、

あるいは両者の調和をはかるのか、というものです。

従来、儒教文化を引き受けていた日本にとってのあこがれは中国でした。

その中国がアヘン戦争でイギリスに負け、日本の中国崇拝感情は揺らいでいたのです。

福沢諭吉の「脱亜論」はそこに道を提示したものになります。

我日本の国土は亜細亜あじあの東辺に在りといえども、其國民こくみんの精神は既に亜細亜の固陋ころうを脱して西洋の文明に移りたり。然るにここに不幸なるは近隣の國あり、一を支那(※中国のこと)と云ひ、一を朝鮮と云ふ。・・・我国は隣國の開明を待て共に亜細亜を興すの猶豫ある可らず。むしろ其伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其の支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分す可きのみ。悪友を親しむものは共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

「脱亜論」

簡単にまとめると、

日本はアジアの東の国だが、我々の精神は西洋の文明にある。

中国や朝鮮は儒教的精神から脱することのできない国だ(彼はこの二国を悪友とまで言っています。)

彼らの文明化を待つ猶予はもはやない、だから、我々は西洋と進退を共にするべきだ!

となります。


これはかなり挑発的な文章でもあります。

実際、脱亜論は日本人の中国・朝鮮への侮蔑的な精神をつくる役割を担ったという一面もあります。

専制主義的な政策を続ける中国・朝鮮と接し続けたら、欧米から誤解を受けるかもしれない。

だから、彼ら悪友と縁を切り、西洋の文明国と行動をともにすべきということになります。

さらに、先ほどの引用文の最後の「西洋が中国・朝鮮と接するように我々もするべき」というのは、

中国分割・朝鮮支配をしていくべき=国を拡大していくべきという主張です。

つまり、国権拡張論(国を拡大していこう!)です。

諭吉の中には、欧米諸国の方が進んでいる文明国、アジアはそれよりも遅れている国という価値観がありました。

遅れているアジアに、西洋の新しい文明を移すべき、

そのためにも朝鮮・中国を支配・分割して改革していくべきだと考えていたのです。


あまり知られていませんが、

諭吉は中国分割の予想図を自分でつくって、さらにそれがほとんど的中したことを誇っていたり、

日本に来日感化され、朝鮮の近代化を目指した金玉均を援助していたことがありました。

これらの主張は当時の政府よりも強硬路線であったといわれています。

※山形有朋が「主権線」(国土)と「利益線」(その国土よりも外の範囲で必要な場所=朝鮮半島を取りに行くべきという主張)を説く3年前に「脱亜論」を出されています。

意外だったでしょうか?

ただ、諭吉の日清戦争観を理解すれば、彼の大本の思想が分かるかもしれません。

次で見ていきましょう。

実は、日清戦争に賛成していた?

日本は1894年から日清戦争に突入していきます。

諭吉はこの戦争を支援します。

それは何故か?

一つには「2 脱亜論」で述べた通り、彼は国権拡大派だったからです。

文明国=西洋諸国=進んでいる国=諭吉の理想国

非文明国≒アジア=遅れている国=諭吉にとって改善すべき国

となります。

アジアの前の記号を≒としている理由は、

日本は西洋化がだいぶできているので、後退国と文明国の間に位置すると諭吉が主張している所以です。

そして、それらの遅れている国に進んだ文明を届けるには分割・支配しかないと主張します。

ただ、諭吉自身が戦争を促したことはありません。

それでも諭吉は近いうちに何かしらのトラブルが起こることは想定していました。

そして、そうなったときに日本は資本や技術を提供する義務があるということまで述べているのです

もう一つには、日清戦争は「官民調和」が成った戦争だったからです。

実際に『福翁自伝』でこう言っています。

日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも有難ありがたいとも云いようがない。命あればこそコンナ見聞をするのだ。前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アゝ見せてりたいと、毎度私は泣きました

『福翁自伝』

「官民調和」した形での富国強兵を説いていた彼にとって、日清戦争はその総決算ともいうべき戦争でした。

日本は政府の力以外にも民間の力が強くありました。

金融業・造船業・商業・農業などは民間事業から成功したものが数少なくありません。

その結果、日本は文明化を果たし、いまだ西洋化を果たせないでいる清に勝つことができた、

諭吉はそれが嬉しかったのでしょう。

戦争を肯定すること自体の善悪を述べるのはここでは控えさせていただきますが、

ここで私が述べたいのは、諭吉の主張には矛盾はないということです。

「一身独立して一国独立す」ることで官民調和を果たすことを目指した諭吉は、

その方法として西洋化を選びました。

そして、実際に官民調和の形で文明化を遂げた日本が結果的には清という大国に勝利をおさめた、

諭吉はこれを喜んでいるといえます。

以上、福沢諭吉の「福沢諭吉はなぜ脱亜論を説いたの?」でした

総まとめ

福沢諭吉は脱亜論をなぜ説いたのか、分かっていただけましたでしょうか。

繰り返しになりますが、

彼の主張は一貫して、「一身独立して一国独立」して、官民調和することであり、

そのために脱アジアも辞さないというものです。

ただ、福沢諭吉が朝鮮人・中国人嫌いと誤解される方が多いので、それは訂正しておきます。

福沢諭吉は晩年に朝鮮人の留学生に勉強を教えています。

彼は決して朝鮮人・中国人嫌いということではないのですが、

国としてみたときに、離れざるを得ないという主張をしているのです。

実際、国としてはダメだと言っているので、これだけでフォローになっているか分かりませんが、

1人1人を嫌いではない、という考えは今の日韓・日中関係からしても分からなくもないことですよね。


さて、長くなりましたが「福沢諭吉を忘れるなプロジェクト」は以上で終了になります。

いかがだったっでしょうか。

新1万円札:渋沢栄一に代わる前に、ぜひ皆さんに福沢諭吉がどんなことを残したのかを知ってほしくて始めました!

少しでも記憶に残ってくだされば幸いです。

ここまで、読んでくださり誠にありがとうございます。

参考文献を載せておきます。

参考にしてください!

☆『学問のすすめ 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斉藤 孝

☆『福翁自伝 現代語訳版』(ちくま新書)翻訳:斎藤 孝

☆『人と思想 21福沢諭吉』(清水書院)著者:鹿野 政直

☆『福沢諭吉が見た150年前の世界 『西洋旅案内』初の現代語訳』(彩図社)翻訳:武田 知弘

☆『西洋事情』(慶應義塾大学出版会 )編集: マリオン・ソシエ, 西川 俊作

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