こんにちは。
よっとんです。心理・哲学・倫理・歴史を中心にブログを書いています!
本日は、朱子学とは何?について簡単に解説します!
このブログを読めば、
・朱子学の思想とは何なのか?
・なぜ朱子はわざわざ朱子学という学問をつくったのか?
がわかるようになっています!
細かい内容は省き、とにかくわかりやすく説明しました。
最後までどうぞお読みください!
朱子学とは?
朱子学とは、朱熹(1130~1200)が孔子の儒学を体系的にまとめなおした学問です。
学問の内容を簡潔にまとめると、次の2つになります
①「世界ってこういう風に成り立っているよ!」という万物論
②「だから、人間関係はこうすべきなんだよね」という人間論
以下、内容をさらに細かく見ていきましょう。
朱子学の万物論=「理気二元論」
朱子学での万物論は「理気二元論」で表されています。
理気二元論とは「この世界は「理」と「気」から成り立っているよ。」というものです。
「理」とは万物の秩序、大自然の理法のこと、「気」は物質を構成する形をもたない物質のことです。
簡単に言えば、「理」はこの世界を統一しているルールです。
「気」は、ドラゴンボールの孫悟空が放つ「気」を思い浮かべてもらえばわかりやすいかもしれません。
朱子学では、その「気」という空気みたいなものが濃縮して、肉体や物質をつくると考えていました。
では、その2つの関係性はどういうものなのか?
朱子によれば、「理」は、「気」でつくられた万物のすべてに内在していると考えました。
例えば、ひまわりにはひまわりの「理」があり、バラにはバラの「理」がある、ということです。
そして、それぞれの物質は内在する「理」に沿って、それぞれ固有の役割を果たします。
さらに、すべては「理」は「天理」(大自然の理法、万物の秩序)によって、
世界の輪を乱さないようにちゃんとルール通りに役割を果たします。
例えば、この世界は多様な植物と動物が存在していますが、世界は滅んでいません。
これは各々の動植物が秩序通り、世界のルール通りに(すなわち、「理」に沿って)生存しているからです。
もし、「理」がなければ世界は悪い方向へ進んでしまいます。
これが「理気二元論」から説かれる朱子の主張です。
「性即理」とは?
次に人間関係論に進みます。
朱子は、人の中に存在する「理」のことを、特に「性」(人の本性のこと)といいました。
※これを「性即理」といいます。
そして人間にとっての性とは「仁・義・礼・智」という儒学で最も大事にされている「徳」として具体化されています。
- 「仁」は思いやり、人を愛すること
- 「義」は欲望にとらわれず、なすべきことをすること
- 「礼」は「仁」を外に表したもの(「礼儀」・「儀礼」・「儀式」など)、あるいは人への譲ることのできる状態のことです。
- 「智」は善悪を判断することのできる道理を備えていること
孟子の「性善説」(あらかじめ上の4つの徳の萌芽は人間に備わっているという考え)でも言われますが、
朱子もまたこれらの「徳」はすべての人に内在していると考えました。
人間にとっての「理」(世界のルール)に沿う生き方とは、人が持つ徳(性)を養い育てること、
また、それらの徳を実践して(外に表すこと=「礼」)、生きていくことだと説きました。
朱子学の人間論=「居敬」と「窮理」
最後に、朱子学のオリジナルともいえる「居敬窮理」について説明しますが、実はここが一番重要です。
なぜなら、朱子が最も展開したかった考えが「居敬窮理」だからです。
朱子は、今までの儒学は正直抽象的だなと思っていました。
要するに、なんだかよくわかんないような、わかるような感じだったのが儒学です。
儒学は「良い人になりましょう、そのために徳を身につけましょう」などと教えます。
しかし、じゃあ具体的に何をすればよいのかを言ってくれません(特に孔子は答えを提示しません)
朱子はその儒学の曖昧さを回避しようとしました。
そうして生まれたのが「居敬窮理」という考え方です。少し脱線しましたが、以下「居敬窮理」の説明に入ります。
「居敬」と「窮理」は別々で意味があります。
まず、「窮理」とは、「理」を探究することです。
「理ってつまり何なんだよ」ということを調べましょう!ということです。
窮理の「窮」は「窮める」という意味で、
厳密には異なりますが、「究める」と同意と思っていいと思います。
万物に内在する「理」とは何か、を探究することで、良い生き方とは何かを見つけていこうというのが、「窮理」です。
この世界のルール(「理」)は何なのかを調べ、そのために私たちはどんな徳(「性」)を身につけなくてはいけないのかを調べる、
これが「窮理」です。
次に、「居敬」とは、「「敬」(つつしみ)の状態で居る」ことを表します。
「敬」とは、心を一つの事に集中させること、
もっといえば、「自分の欲をつつしむ心、喜怒哀楽を出す前の緊張している状態」をいいます。
実際には、心を緊張させ、慎んでいることや、己の内部を深く思索すること、などをすることです
※これを、「持敬静坐」といいます。
少し、仏教の考えに近いですが、
仏教とは異なり、儒教はあくまでも「人間関係」にフォーカスしているので、
特に、目上の人と会ったときに、「敬」でいることが求められました。
これは、目上の人に出会ったときに緊張状態でいろ、ということにもなりますが、
この場合の緊張状態とは、「怖がる」という意味ではなく、尊敬の念や感謝の念を持ったりすることです。
武士の人たちの中で家臣の人たちが、将軍や大名に出会うときの状態を思い浮かべていただければよいかと思います。
あくまでも上の人をたてる行為していますよね。
今の日本人も目上の人と会うと、緊張状態になると思いますが、
それはもしかしたら、武士の頃からの名残で、「敬」の姿勢が出来上がっている証拠なのかもしれません。
窮理はかなり客観的な方法ですが、居敬は自分と向き合う点で、主観的な手法といえます。
ちなみにですが、日本の朱子学では「窮理」よりも特に「居敬」を重視する傾向にありました。
(特に山崎闇斎が重視しました)
まとめ
朱子学は儒学の思想的な面を具体化するために、朱子が完成させた学問です。
特に「居敬」と「窮理」という実践が重んじられ、江戸時代の武士にフィットしました。
以上が朱子学の簡単な説明でした!
ここまでご覧いただきありがとうございました。
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